「通り魔ケンちゃん」


孤独な通り魔と盲目の美少女との純愛物語。 「きみのためなら、だれでも殺してあげる」

- ぺーすけ -2002-03-06 22:18:05 (ホームページ)
 住宅地の道を歩きながら、ケンちゃんは微笑んだ。
 いや。自分では明るく微笑んだつもりなのだが、目は血走っていた。
 ひひひひひ……このまま歩き続け、最初に目があった奴を殺そう。
- けろきち -2002-03-16 21:33:28 (ホームページ)
彼のポケットの中の右手にはしっかりとアイスピックが握られている。
今は大体正午。一番人通りの少ない時間帯である。
- ぺーすけ -2002-04-01 08:12:59
 突然。
 ケンチャンの歩みが止まった。
 あいつがいい。
- ぺーすけ -2002-04-02 12:51:10

 美しい瞳をしたひとりの少女がじっとケンチャンのほうを見つめている。
- ぺーすけ -2002-04-03 18:55:54
 さっきから、血走った眼をしたケンチャンと視線を交差させているのに、向こうには動じる様子すらない。
 ケンチャンは、街角にたたずんだ少女との距離をせばめていった。
- ぺーすけ -2002-04-03 18:56:39
 少女と握手できる距離まで迫ったケンチャンは、ゆっくりと見せつけるように、懐からアイスピックを取り出す。
 だが少女は、まさしく目の色ひとつ変えなかった。
 なんだ、この娘は?
- けろきち -2002-05-06 21:06:36 (ホームページ)
ケンチャンはその少女の瞳をみつめた。
彼女の瞳は美しく、そしてどこか儚げだった。
その時、
―カチャン
ケンチャンの手からアイスピックが音を立てて落ちた。

- 鈴蘭 -2002-06-26 12:19:03
少女の瞳は、今も愛らしく光っている。
彼は、少女の瞳に吸い寄せられた。そう、そのまま吸い込まれてしまいそうに綺麗な瞳・・・。

- 鈴蘭 -2002-06-26 12:57:15
そのとき!!!!
一台のトラックが、けたたましいクラクションを鳴らしながら迫ってくる。
「危ない!」
え? ケンちゃんが気付いたときには遅かった。
ケンちゃんが振り返った時、既に、彼らとトラックの距離はほんの5mだった。
- 海苔 -2002-09-03 23:50:41
しかし、そのトラックというのは近所のガキのラジコンだった。
ご丁寧に電飾付きである。
ちっ、驚かせやがって。
ケンちゃんは声の主の方をみた。

- 試験送信 -2002-11-16 04:55:58
・・・と安心したのも束の間だった。
ただならぬ冷気を背後に感じて振り返ると、ソコにはホッケー・マスクを付けた巨漢が立ちはだかっていた。
- 試験通信 -2002-11-16 12:57:10
「オ、オマエは・・・じぇい尊!!!」
ケンちゃんの幻覚に現われたのは、かつて日本全国を震撼させた連続殺人事件の主犯“じぇい尊”のオゾマシイ姿だった。
十年前の夏・・・。
さる避暑地で週末を過ごしていたケンちゃんの一家は、全員(!)・・・コノ忌まわしい殺人鬼の犯行の犠牲となっていたのだ。
一人・・・ケンちゃんのみが、アイスピックを手に果敢に応戦し、死闘の末にコノ悪魔を倒し、生き延びたのである。
- 試験送信 -2002-11-19 12:41:35
「コン畜生! オレを・・・また操ろうとしやがったナ〜!!」
幻覚とも・・・憑依霊とも付かぬじぇい尊のヴィジョンを、かっ!と睨み据えるケンちゃん・・・。
「・・・負けないゾ〜! オマエなんかに負けるモンか〜〜!!」
ケンちゃんが渾身の力を振るって思念を送ると、じぇい尊のヴィジョンは次第に薄れ出し、見えなくなった。
それと同時にケンちゃんは意識を失い、その場に倒れた。
- 紗那 -2003-01-07 17:22:29
気が付くとケンちゃんはベットに横たわっていた。
見慣れない部屋。
ぬいぐるみや花柄のレースカーテンから見て女の子の部屋のようだった。
- 讃岐うどん(試験通信改め) -2003-01-26 10:58:14
・・・と!
ケンちゃんの目覚めるのを、まるで狙い澄ましたかのように、音もなく忍び寄る人影があった。
白いドレスを身にまとった、髪の長い女・・・。どうしてか素足のままだった。
そうとも知らぬケンちゃんは、まったく無防備に・・・頭をめぐらせて、枕辺に立つソノ女と“眼”を合わせてしまった。
「・・・!!!」
一瞬にして、ケンちゃんの顔面は恐怖に引き攣った。
辛うじて半開にした口から、声にならない悲鳴がほとばしり出た。
「オ・・・!! オマエは・・・サド子〜〜!!!」
ソレは・・・。
身に備わった異常な力の故に“化け物”呼ばわりされ、いじめ抜かれた挙句、深い・・・暗い井戸の底へ沈められ、現世への限りない恨みを呑んで死んでいった“山村サド子”だった。
サド子の怨霊が枕辺にたたずんで、ケンちゃんの顔をじいっ!と覗き込んでいたのだ。

- 讃岐うどん -2003-01-26 11:02:18
「オマエも・・・オレを取り殺そうってのか〜!!」
サド子から逃れようと、懸命にもがくケンちゃん。
しかし、身体は硬直してしまって、ビクとも動かせない。
“じぇい尊”を退散させるのに恐ろしい思念の消耗を強いられたケンちゃんに、もはやサド子と闘う力は残されていなかったのだ。
苦悶するケンちゃんを弄ぶかのように、サド子が両腕を差し伸べて来た。
氷のように冷たい指先が、まずケンちゃんのこめかみに触れ、次いで掌の平が頭部全体を包み込んだ。
ケンちゃんは心の中で絶叫した。
ベッドに横たわっていた筈のケンちゃんの身体は、何時しか、冷たい水の中に引き込まれている。
(・・・ココは井戸の底だ!)
深い、暗い・・・冷たい井戸の底に、サド子と二人きりだ!
極限の恐怖と絶望から、断末魔にも似た咆哮が闇の中に轟いた、その瞬間・・・。
今度こそ、本当にケンちゃんの目が覚めた。

「・・・!?」
はッ!とベッドの上に起き直ったケンちゃんを、傍らから愛らしい瞳の少女が心配そうに見つめているところだった。

- 讃岐うどん -2003-01-26 11:02:59
突然、 少女とは反対側から浅黒い男の顔が覗いた。
「オ! 意識が戻ったぞ!」
赤いラインの入ったヘルメットを被った救急隊員だった。
ケンちゃんは担架の上に横たえられ、救急車に乗せられようとしていたのだ。
ヨクヨク平和な住宅街なのだろう。
時ならぬ救急車の出動に、路上には買い物帰りの主婦やら、ラジコンカーを大事そうに抱え込んだガキンチョやらの野次馬が群れ、ケンちゃんはちょっとした“晒し者”にされていた。
「アイツ・・・きっと“薬チュー”だゾ〜!」
ガキンチョが得意気に仲間らと話しているのが聞こえた。
「ナンカ様子変だったゾ〜!」
ケンちゃんは、性急に立上がろうとした。
「ボ、ボク・・・もう、全然大丈夫ですから。ちょっとした貧血です。」
ともかく、この場を離れたかった。
勿論、救急隊員から強く制止された。
隊員は、手の指を立てて見せて、
「コレ、何本に見えますか?」
「一本。ああ・・・今度は三本。」
「今日の日付を言えますか?」
「平成十五年の・・・。」
「あなたの名前は?」
「九十九(つくも)・・・健一。十九歳。大学生です。」
「それじゃ、生年月日は?」
・・・と云う具合に、いくつもの質問に応答しなければならなかった。
ようやく解放されようとした時、隊員はあらためて傍らにいる少女を指し示して、
「この娘によく御礼をいいなさいね。あなたが倒れたのに気付いて、電話してくれたんだよ。私らが来るまでの間、ずっと付添っていてくれたんだからね。」

- オムレタス -2003-02-03 22:51:55
こうして・・・ケンちゃんの最初の “通り魔体験” は、 数々のアクシデントに見舞われて、 成就するに至らなかった。
だが、 逃げるように其の場を立ち去ったケンちゃんの内部では、 確実に何かが変化し始めていた。
其の日から、 一週間と云うもの・・・。
ケンちゃんは、 “じぇい尊” の幻覚に襲われる事も、 “サド子” の悪夢に魘される事も無かった。
そして・・・あの不思議な少女の面影が、 一向に脳裏から離れないのである。
それらは、 却ってケンちゃんを不安に陥れていた。

- オムレタス -2003-02-08 15:46:33
下宿に逼塞しているのは恐怖であったから、 久々にキャンパスへ足を運んでみたのだが、 やはり不安を紛らす事は出来ない。
本館大講堂の最後列に席を取って、 講義に耳を傾けるでもなく黙然としていると、 靴音を忍ばせて、 サークル仲間の種村が歩み寄って来た。
「久し振りだな・・・。 健一。」
種村は、 ケンちゃんより一期上の法学部三回生で、 『犯罪心理学』 を専攻している。
ケンちゃんと共に “新世紀大学ミステリー ・ サークル” の一員でもあるが・・・サークルは事実上機能停止の状態に在る。
昨年の暮、 山村サド子の “呪いのDVD” の謎を解明しようとした中心メンバー四人が、 相次いで怪死を遂げた為であった。
・・・種村は、 ケンちゃんの隣の席に腰を掛けた。
「お前と大学で顔を合わせるのは、 年が明けてから初めてじゃないかな・・・。」
そう・・・。 講義に出席するのは、 今日が最初である。
「相変わらず、 サド子の夢を見るのか?」
「いや・・・。 最近見なくなったよ。」
「そうか。 良い傾向じゃないか。」
種村は、 ほんの一瞬笑って見せた。
「まだ気に病んでいるんじゃないだろうな? 自分一人が生き残った事を・・・。」
其の問いは、 ケンちゃんが予期していた通りのものだった。
「あの四人の死に責任を感じているんなら、 全くの見当違いだからな。 あの四人が死んだのは・・・自業自得と云うやつさ。」
- オムレタス -2003-02-08 15:47:25
「あの四人はな・・・。 怖い物見たさに “サド子のDVD” を入手したものの、 自分達でチェックを入れる勇気は無かったんだ。 其処で、 先ず・・・新参者のお前に見せてみようと目論んだ。 何の予備知識も与えないでな! お前は、 連中の実験道具にされたんだ。 被害者の方なんだ。」
ケンちゃんは、 表情一つ変えなかった。
(“被害者”か・・・。 何と云う居心地の良い響きなんだ。)
「巷間流布されている噂が真実なら、 “呪いのDVD” を観た者は、 一週間後に不慮の死を遂げる事となる。 しかし、 一週間が経過してもお前の身には何も起らなかった。 それを見極めてから、 連中は自分達にもゴーサインを出した。 恐らく四人の中で、 前途に不安を抱いていた者は無かったに相違ない。 処がだ! 何故かお前に対しては寛大で、 其の通過を黙認した “死の翼” は、 突如として連中の頭上に羽搏いた。 そして、 容赦なく、 牙を剥いて襲い掛かったんだ。」
種村の横顔は、 何処までも冷やかであった。
「無論・・・俺は、 “呪い” などと云う不合理なものの存在を信じてはいない。 四人の死の原因は、 警察の捜査が進むに連れて明らかになるだろう。」
不意に、 種村はケンちゃんの方を向直った。
「俺が云いたいのはな、 健一。 今度の件でお前が自責の念に駆られているとしたら、 余りにも馬鹿げていると云う事なんだ。 散々サド子の夢に悩まされたのも、 その気持ちの現われだったんじゃないのか?」
(そうかも知れんし・・・そうでないのかも知れない。)
「老婆心と思うかも知れんが、 お前が自分の存在を必要以上に卑屈に捉えているらしいのを、 黙って見ていられないんだ。 お前は遙に自分を誇る事が出来る人間の筈だ。」


- オムレタス -2003-02-12 23:10:16
「他人に誇れる物なんか、 僕には何一つ有りはしないよ。 同じく失う物もね・・・。」
ケンちゃんは、 俄かに席を立つと、 其のまま講堂の後部扉へ向かった。
「麗しい友情・・・実に感じ入るばかりだよ。 君は僕には過ぎた友人さ。」
「健一! お前は、 英雄的資質を備えた人間なんだぞ! イヤ、 十年前のお前は紛れもない英雄だった。」
背後から、 種村の声が追って来た。
「英雄だと!?」
扉の手摺を掴んだままの姿勢で、 ケンちゃんは振返った。
「十年前・・・お前は、 まだ十歳にも満たない身で、 邪悪なる殺人鬼・・・じぇい尊と対決し、 是を打ち倒したんだ! 一対一でな。 それが英雄でなくて何だ?」
種村は、 キャンパスに在って、 ケンちゃんの凄愴な過去を知悉する、 ただ一人の人間であった。
他の仲間からは、 単にネクラな奴と思われているだけである。
「違う! 英雄なんかじゃない!」
ケンちゃんは、 身を捻って叫んだ。
「オレは怪物に変貌しただけだ! “じぇい尊” と云う怪物と戦う為に、 みずからも怪物に変貌したんだ。 そして・・・誰一人守れなかった。 死闘の果てに、 じぇい尊は死んだ。 九歳だったオレも、 その時死んだんだ。」
- オムレタス -2003-02-17 22:30:45
「あの日から、 オレは二人の “亡霊” に付き纏われている。 一人は、 じぇい尊。 もう一人は、 九歳で死んだ・・・オレ自身の亡霊だ。」
「健一・・・。 そうやって、 何時までも立止まっているつもりか? 喪失した “楽園” の記憶を胸に抱いたまま・・・。」
「何ィ〜!?」
ケンちゃんの表情に、 不意打ちを受けたような動揺が走った。
「九歳の子供の亡霊だ・・・。 お前的には、 “剥奪” されたと感じているらしい、 幸福な少年期への哀惜の情を込めたものだろうが、 そんな使い古された比喩で、 現実存在としての自己を韜晦出来るとでも思っているのか? 運命の独楽は回り続けているんだ。 もはや逃れ様のない事は、 お前にも分かっている筈だ。 お前の意識の内奥では、 依然・・・怪物への進化を成就しようとする願望が、 激しく渦を巻いているに違いなかろうからな。」
種村は、 ケンちゃんに反駁の余地を与えず・・・一気に続けた。
「お前を絶えず脅かし続ける・・・じぇい尊の幻覚の正体は、 実はお前の分身なんだ。 怪物へ進化を遂げようとする内なる願望が、 如実に投影されたものでしかない。 ホッケー ・ マスクの下から現われるのは、 お前自身の顔に他ならないだろう!」
「オマエに・・・分かる筈がない!!」
ケンちゃんの眼は、 種村に対する明瞭な敵意に満ちていた。
「オレはこの十年間・・・自分が怪物に変貌しようとする衝動を、 死に物狂いで抑え続けて来たんだ! それがどんな事なのか・・・。」
「“怪物” になるのを、 何故恐れる? “未知の存在” に変容する事を、 如何して拒絶する? それがお前の “宿命” なら、 有りのまま受け容れてみたらどうなんだ?」
「オレを・・・嗾けているのか?」
「決断の主体は、 何処までもお前自身だ。 すべてはお前の手の内に在ると云っているんだ。 お前は、 自らの意思で何もかも変えられるんだ。」
「もう良い! これ以上、 オレに構うな!!」
云い捨てるなり、 ケンちゃんは扉の外へ身を翻した。
種村は、 其の後を追おうとは・・・しなかった。
(健一。 俺は “善人” 振って、 アドヴァイスしている訳じゃないからな・・・。)

・・・キャンパスを後にしたケンちゃんは、 二月の街並みを彷徨い続けたが、 何時しか其の歩みは、 あの少女と出会った住宅街への道をたどっていた。
- 讃岐うどん -2003-02-18 01:02:38
眼に映る風景の悉くが、焦点の合わないカメラのファインダーを覗き込んでいるように、ぼんやりと感じられた。
ケンちゃんは、雲の中を歩いているような気分がした。
目の前を、いびつな音を響かせながら、ラジコンカーが走り過ぎて行った。
すぐ後からガキンチョが出て来たが、ケンちゃんを一目見ると、慌ててラジコンカーを拾い上げ、最寄りの路地へ駆け込んで行った。
(確かにこの辺りだ・・・。)
あの少女の立たずんでいた場所の近くまで来たと思った。
・・・と。
前方の路上に、一人の老婦人が踞っているのが、ケンちゃんの注意を引いた。
- 讃岐うどん -2003-02-19 00:56:52
怪訝に思って近付いてみると、老婦人は両肩を震わせながら、咽び泣いているではないか?
「刀自、どうしたんですか? 一体。」
「・・・娘御が、命を落としましたのじゃ。」
老婦人は後ろ姿の儘、ケンちゃんの問いに答えを返した。
- 讃岐うどん -2003-02-21 06:10:48
「心根の優しい娘御で御座いました。別け隔てが無うてな。町内の誰からも好かれて居りましたものを・・・。」
見れば・・・。
老婦人の真向いの壁面には、簡易な祭壇が設けられ、真新しい花束に・・・供物が捧げられていた。
老婦人は、香華を手向けていたのである。
「こ、これは・・・どういう事ですか!?」
最悪の予感に打ち震えるケンちゃん。
ココは・・・正に一週間前、“あの少女”の立たずんでいた場所なのだ。
「“通り魔”ですじゃ。」
「げッ!?」
「七日前の夕刻・・・。この場所で、通り魔に遭いましたのじゃ。」
- 讃岐うどん -2003-02-22 05:55:38
(落ち着け! 未だ“あの娘”だと決ったわけじゃないゾ。)
懸命に踏み堪えるケンちゃん。
その時、気紛れな風が一枚の古新聞を運んで来た。
拾い上げてみると、なんと誂えたように、ココで起きた『通り魔事件』を報じる紙面ではないか。
次の瞬間・・・。
ケンちゃんの眼は、掲載されている“被害者”の写真に釘付けになった。
(う・・・う・・・!!)
“あの少女”に紛れもなかった。
絶叫大会の優勝候補みたいなケンちゃんの悲鳴が、閑静な住宅街に轟いた。
- 讃岐うどん -2003-02-22 08:50:51
「だ、誰だ? 誰がやったんだ〜!?」
「・・・うぬじゃ。」
「え?」
「うぬが殺したんじゃあ〜〜あ!!!」
刹那・・・!
ケンちゃんの面貌を目掛けて、シェイ!と小刀が繰り出された。
「しゃっ! 何をする!?」
混乱の極にあるケンちゃんだが、咄嗟に躱したのは・・・見事だった。
飛びすさって、老婦人と相対したケンちゃんの五体を、更なる戦慄が貫いた。
「あッ! 貴女は・・・!?」
老婦人は・・・大物女優の“中村玉の緒”だったのだ。
そして、玉の緒の手に握られているのは小刀ではなく、無くした筈のケンちゃんのアイスピックだった。
- 讃岐うどん -2003-02-22 22:07:12
「何なんだ? コレって何なんだヨ〜!?」
理性も感情もズタズタにされたケンちゃん。
“中村玉の緒”が、アイスピックをかざしてにじり寄る。
「コレに・・・見覚えがないとは言わさぬゾヨ。あの日、うぬが取り落とした物で有ろうが?」
玉の緒が、鬼女の形相で迫る。
「あの天女のような娘御を、何ゆえ手に掛け居った〜!?」
「違う・・・。僕は手を下してなんかいない!」
「ええい! この期に及んでしらを切りよるか? ちゃんと証人が居るのじゃゾエ。」
「僕じゃないチュ〜のに!」
その時、ケンちゃんの背後にただならぬ騒めきが・・・!
- 讃岐うどん -2003-02-23 08:20:34
振返ったケンちゃんは、世にも異様な光景に息を呑んだ。
コノ住宅街のドコから湧いたのか?と思われる程大勢の子供達が路上に立ち並び、ケンちゃんにじっと視線を注いでいたのだ。
ケンちゃんは、完全に退路を断たれていた。
「ボク・・・見たんだゾ〜!」
ラジコンカーを抱え込んだガキンチョが先頭に立って、ケンちゃんを指差している。
「コイツが、殺された女の人の前で刃物を構えてるトコ・・・!」
「あわわ・・・!」
「コイツが殺したんだ。コイツは、人殺しのゲス野郎だ!」
子供達の間から、“人殺し!”“下衆野郎!”の大合唱が起こった。
- 讃岐うどん -2003-02-25 12:45:08
「止めろ! 僕をどうする気だ〜!?」
じりじりと間合いを詰めていた子供達が、一気に襲い掛かって来た。
四方八方から・・・。
数十本の腕が伸び、ケンちゃんの身体は御輿のように担ぎ上げられた。
「うははははは・・・! よい気味、よい気味!」
玉の緒の哄笑が、高らかに響き渡る。
絶叫するケンちゃんを担いながら、小悪魔の群の如きガキンチョ軍団は、白昼の往来を行進し始めた。
その行く手に待ち受けているのは、“棺室”のドアを開け放した・・・霊柩車だ。
手回し良く、棺桶一式も用意されている。
ケンちゃんの恐怖は、極点に達した。
- 讃岐うどん -2003-02-28 12:50:27
「ソ〜レ! 一斉のセ〜〜ッ!!!」
掛け声と共に、棺桶に放り込まれるケンちゃん。
間髪を入れず、蓋が被せられ、釘が打ち付けられる。
「ワアア〜! 止めろ〜〜!!」
身じろぎも儘ならぬ体勢・・・。
ケンちゃんは四肢を突っ張って、懸命に蓋を跳ね除けようとするが、毫も揺るがない。
ガキンチョが、何人も乗っかって、押さえ付けているに違いない。
「頼む! 話を聞いてくれ〜!」
今日幾度目かの絶叫も虚しく、作業は恐ろしい速度で進められていく。
今やケンちゃんの全存在は、等身大の闇の中に・・・永遠に封じ込められようとしていた。
- オムレタス -2003-03-05 21:51:02
(如何なっているんだ、 一体? 人に弁明の機会も与えないで・・・。 頭から、 オレを犯人と決めて掛かっている。 皆で寄って集って、 オレを血祭りに上げようと、 眼の色を変えていやがる! 正気の沙汰じゃない。 完全に・・・常軌を逸している!)
身から出た錆とは云え、 これ程迄に不当な制裁を受容しなければならぬ謂われなどない。
・・・死んでたまるものか。
真犯人は他にいるのだ。
今、 オレが死んでしまったら、 誰が犯人を捕える?
春秋に富む生命を敢えなく散らした少女の無念を、 誰が晴らすと云うのか?
(この儘では、 死んでも死に切れない。 オレは、 殺されたって死なないからナ!)
絶体絶命の状況下・・・ケンちゃんの内部に、 強固な生存への意志が生まれた。
同時に、 久しい間経験する事のなかった、 荒々しい感情が喚起された。
悲嘆と絶望の底から、 理不尽なものに対する怒りが姿を現わし、 恐怖は憎悪へとかたちを改めた。
十年前の “あの日” の様に・・・。
等身大の密室の中で、“怪物” が覚醒しようとしていた。
- オムレタス・ド・シリアス -2003-03-08 23:15:51
さて・・・。 v(^.^)
突然の少女の死。
ケンちゃんの中の “怪物” の覚醒。
物語は、 一気に佳境へ突入か?と云う展開を示していますが、 明敏な読者の方なら、 是は現実に進行している事態ではなく・・・ケンちゃん御得意の “白日夢” で有ろう事は、 既に御見通しかと思います。

>眼に映る風景の悉くが、焦点の合わないカメラのファインダーを覗き込んでいるように、ぼんやりと感じられた。
>ケンちゃんは、雲の中を歩いているような気分がした。

この点、 讃岐うどんさんの伏線の立て方は、 実に手慣れていて卒が有りませんね。
・・・従って、 物語が本当の佳境を迎えるのは、 もう少し先の事と御了解願います。
無論、 ケンちゃんと未だ言葉すら交わしていない (?) 盲目の美少女も、 健気に “存命中” と云う設定で続行する意向ですので (笑)
- オムレタス -2003-05-31 22:24:17
等身大の闇の中で、 未知なる運命の扉が、 将に開かれようとする直前・・・。

けたたましい携帯コールが闇を切り裂き、 ケンちゃんの意識は現実世界に引き戻された。
- オムレタス -2003-06-01 06:27:31
「御客さん、 御客さん!」
車掌が血相を変えて駆け寄る気配に、 反射的にケンちゃんは両眼を開いた。
「さっきから鳴ってるの、 アンタの携帯でしょ?」
「・・・??」
「駄目だよ! 他の御客さんに迷惑だからね。 車内では電源を切るか、 マナー ・ モードに・・・」
車掌から注意を受けている不心得者は、 ケンちゃんの・・・隣の席の中年男であった。

斜向かいの席に座って、 バイエルの教則本を開いている小学校二、 三年位の女の子が、 白いスクール帽を揺らして、 ちらっと視線を投げた。
マナーのない大人って、 ホント仕様がないなァ・・・と云う表情に見えた。
- 讃岐うどん -2003-06-09 21:40:07
「・・・るへエ! ボケ〜ッ!!」
逆切れして、車掌に絡み始める中年男。
「不正乗車したってんじゃね〜だろが? 携帯の電源切り忘れる事ぐらい、誰だってあらア! ソレをなんじゃい、鬼の首でも獲ったみたく、突っ掛かって来やがって・・・!」
信じられぬ程、質の悪いオヤジである。
「アンタ・・・他の御客さんに迷惑掛けといて、良くソンナ態度が取れるね?」
「俺だって客の一人なんだよ、うだうだぬかしてねえで、早いとこ失せやがれ!」
「何だと〜? 誰に向かって口聞いてんだ! 舐めるんじゃねえゾ・・・もういっぺん云って見ろオ!!」
「何べんでも云ってやらア! ボケ車掌が、とっと失せろ! 客に嫌がらせバッカしやがって・・・。」
「ボケ車掌だア? 貴ッ様・・・許さん!」
「アンだよ? この手は!」
「オワッ!!!」
突然、車掌は呻声を発すると、両手で顔面を覆って仰け反った。
オヤジが、車掌の手を跳ね除けた拍子に、拳固がモロにブチ当たったのである。

よろめいた車掌は、真後ろの座席に倒れ込んだ。
バイエルの教本を広げている女の子の、ちょうど隣だった。
女の子の軽い悲鳴が上がった。
体勢が崩れ、本が手元から零れ落ちた。
- 讃岐うどん -2003-06-09 21:46:46
シートの隅に身を寄せながら、怯えた眼で車掌の挙動を見つめる女の子・・・。
乗客達も皆、固唾を飲んで見守っている。
オヤジもまた色を失い、身動ぎ一つしないでいた。

全員の視線が注がれる中、車掌はようやく起き直ると、顔面を覆っていた両手を離した。
すると、片方の鼻腔から・・・つう!と真紅の液体が滴った。
「きゃ〜ッ! 鼻血ィ〜ッ!」
女の子の口から、今度は本格的な悲鳴が放たれた。
- 讃岐うどん -2003-06-09 21:47:28
車掌は、全身から異様な気配を漂わせながら、オヤジに詰め寄った。
「・・・貴様ァ、ちょっと来いッ!」
「ナンだよォ、ソノ眼は?」
「・・・いいから、ちょっと来いッ!」
「俺のセイじゃねえだろが?」
「オメエだよ!」
鼻血を滴らせた車掌の面貌が、遂に目前まで迫った。
「次の駅着いたら、公安室ゥ・・・突き出してやるからァ・・・ちょっと来いッ!!」
「てめえだって悪いんじゃねえかよ〜!?」
車掌とオヤジは、揺れる車内で・・・ケンちゃんの目の前で、大格闘を演じ始めた。
- オムレタス -2003-06-13 01:59:04
一瞬にして車内は、 逃げ惑う乗客達の叫喚に包まれた。
中年男の非は明らかであったが、 車掌に加勢しようとする者は誰もいなかった。
修羅場の只中に在って、 一人ケンちゃんのみは動じる気配もなく、 黙然と座り続けていた。
・・・何と云う事だろう。
悍ましい夢から醒めてみれば、 是の有り様だ。
是の滑々とした現実は、 悪夢以上に悪夢的じゃないか?

(心の安らぐ場所など、 何処にもないんだな・・・)

ケンちゃんは、 自身の呪わしい運命を思い合わせながら、 哄笑したい気分であった。

(それにしても、 この二人・・・)

如何したら、 是程容易に・・・内奥の狂気を解放する事が出来るんだろう?
是の十年間、 俺が死に物狂いで抑え続けて来たものを、 躊躇いもなく曝け出してやがるじゃないか。
まるで、 出来損ないの “怪物” のサンプルだ。
歪んだ自画像を見ているようで我慢がならん。

ケンちゃんは腕組みをすると、 瞼を閉じて自身の黙想の中に沈み込もうとした。
それは、 アンニュイと云うよりも、 悪魔的と呼んで良い風情であった。
- オムレタス -2003-06-14 23:21:56
走行する列車内で、 車掌と中年男は大格闘を演じ続けている。
それは最早 “死闘” の様相を呈していたが、 乗客の大半は隣接する車両へ逃れ去ってしまい、 制止する者とてなかった。

やや有って、 ケンちゃんの瞼が開かれたのは、 エスカレートする彼らの怒号 ・ 罵声によるものではない。
彼らから放たれる兇暴な思念とは・・・全く異なる性質の “信号” に感応したからである。
その悲痛な調子は、 発信者が極めて切迫した情況に在る事を告げてもいた。


- オムレタス -2003-06-15 09:20:01
第三章 ワルツィング ・ キャット v(^.^)


(是は、 恐怖の感情だ・・・)

誰かが、 恐怖に震えながら、 救いを求めている。
混乱の渦中に、 たった一人取り残されて、 必死に救いを求めている。

突然、 ケンちゃんは異様な胸騒ぎに駆られ始めた。

斜向かいの席に座って、 バイエルの教則本を開いていた八、 九歳の女の子・・・。
無事に退避出来ただろうか?

視線を前方に移したケンちゃんは、 瞬間・・・愕然となった。
予想もしない光景を目撃したからである。
- オムレタス -2003-06-15 09:31:52
斜向かいの座席には、 もう女の子の姿はなく、 小さなバスケットが放り出されていた。

そして、 バスケットの中から・・・。
生後一月半位であろうか?
一匹の白い子猫が這い出し、 庇護者を求めて鳴き続けていたのである。

唖然とするケンちゃんの耳に、 短い叫び声が飛込んで来た。

「リオン・・・!」

振向くと、 通路の数メートル先に、 白いスクール帽の・・・あの女の子が佇んでいた。
- オムレタス -2003-06-21 19:35:31
他の乗客達と共に隣接車両へ退避していた女の子は、 子猫の身を案じ、 一人引き返して来たのであろう。

「じっとしているのよ、 リオン! 絶対動いちゃダメよ・・・。 今、 助けて上げるからね!」

“リオン” と呼ばれた子猫は、 女の子の姿を認めると、 いっそう激しく鳴きつのった。

しかし目の前では、 車掌と中年男の二人が、 凄まじい怒号を挙げながら、 何時果てるとも知れぬ死闘を繰り広げているのである。
頑是ない女児が、 到底近寄れる状況ではない。
また・・・子猫の方が、 通路に身を躍らせようものなら、 両者の壮絶な揉み合いに巻込まれ、 踏み潰されてしまうかも知れなかった。

何れにしても、 無事に子猫を救出するのは至難中の至難と思われた。
- オムレタス -2003-06-21 19:47:48
女の子は、 そのまま立ち竦んではいなかった。
不安定に揺れる通路の上を、 小さなシューズが、 半歩・・・そして一歩と、 前に進み出た。

(待っているのよ、 リオン・・・。 今、 迎えに行くからね)

内心の恐怖は、 小さな肩から首筋にかけての断続的な震えとなって現われている。
その度に、 スクール帽が不随意に上下するので、 容易に覗い知る事が出来た。
しかし、 女の子の表情には年齢に相応しからぬ、 不退転の決意が滲んでいた。

女の子は、 何としても子猫の救出を敢行する覚悟でいたのである。

一瞬の間隙を衝いて、 子猫のもとに駆け寄る。
両腕に抱え上げ、 身を翻して離脱する迄、 恐らく数秒・・・。
その数秒の猶予があるかどうか?

(何と云う無謀な・・・!)

年端も行かぬ女の子が、 冒険的な行動に踏み切ろうとしている事は、 ケンちゃんを少なからず慌てさせていた。
それまで、 事態の傍観者に徹していたケンちゃんが、 徐に立ち上がったのは、 この時である。
- オムレタス -2003-06-29 01:00:31
少女が、 目の前で暗黒の口を開く “デッド ・ ゾーン” へ、 果敢に身を躍らせるのと・・・。
ケンちゃんが、 弾みを付けて座席から立ち上がるのと・・・。
拳闘家崩れらしい中年男が、 車掌目掛けて右アッパーを繰り出すのと・・・。
そして、 車掌が咄嗟に左半身を開いて、 それを躱したのは・・・。

殆んど同時であった。

中年男のパンチは勢い余って、 車掌の背後に立ち上がったケンちゃんの頤部を襲い、 強烈なアッパー ・ カットとなって炸裂した。
脳髄の中を高圧電流が駆抜けるような衝撃があった。
一瞬、 ケンちゃんの身体は、 宙に浮上がったかに見えた。
それから、 背後の座席に、 どう・・・!と沈み込んだ。

「うわッ! ダッセエ〜〜!!」
「目茶カッコワリィ〜の!!」

隣接車両との連絡口付近で、 三、 四人固まって見物している子供達の間から、 心ない野次が飛んだ。

しかし、 ケンちゃんの受難は、 小さからぬ陽動効果をもたらした。
第三者を巻込んだ事で動揺を来たした二人は、 束の間交戦を停止したのである。
遠のく意識の中で・・・ケンちゃんは、 少女が白い子猫を胸に抱すくめる情景を、 網膜に投影させていた。
続いて、 少女が避退する間際、 此方へ視線を投げるのも・・・。

瞬間、 微かな思念の交感が生じたのか?
少女もまた、 先方からの眼差しを意識した。
思い掛けなくも、 “デッド ・ ゾーン” の只中で出逢った柔和でイノセントな眼差しを・・・。
そして、 すべての事情を正確に理解したのであった。

安全圏まで舞い戻って、 床に蹲ると、 少女はあらためて背後を振り返った。
依然・・・子猫を胸に抱いた儘、 九歳の少女らしい不安気な表情で・・・。
この時になって少女は、 猛烈な震えを全身に感じ始めていた。
それは、 身体の底から際限もなく押し寄せて来る震えで、 止めようと思っても、 もはや如何する事も出来なかった。
- 讃岐うどん -2003-06-29 10:02:24
「貴様ァ! とうとう・・・他の乗客に危害を及ぼしたなァ!?」
「てめえが除けやがるから、いけねえんだ!」
「何だとォ〜!? 貴ッ様・・・まだヒトのせいにすんのかァ? ソンナ態度だからダメなんだァ〜!!」

顔面を朱に染めながら、“説諭”を垂れ始める車掌。
制帽は飛ばされ、制服のボタンも粗方千切られて、エライ風態だが、鉄道員スピリッツは健在らしい。
血止めか?額に巻き付けたハンカチが、まるでバンダナのようだ。

その時・・・!

「車掌〜ッ! 今だ、ヤッチマエ〜〜!!」
「車掌、エクシード・チャ〜〜ジッ!」
「早いトコ、『クリムゾン・スマッシュ』決めンかい〜!?」
「殺せ、殺せエ〜〜〜!!」

野次馬のガキンチョどもが挙って、無責任な声援を送り始めた。
- 讃岐うどん -2003-06-29 12:29:45
ハッ!と、我に返った車掌。
咄嗟に右腕を翳すと、裂帛(裂肛ではない)の気合とともに跳躍した。

「食らえ・・・正義の鉄槌!」

虚を衝かれたオヤジの面上に、車掌の必殺ラリアートが炸裂した。
うがッ!と仰け反るオヤジ。
だが、車掌もスタミナ切れか・・・打ち込みは意外に浅く、ダウンを取るに至らない。

「畜生、汚ねえ真似しやがって!」

立ち所にオヤジの逆襲を呼んだ。
右ストレート・パンチを食らって、今度は車掌がよろける番だった。
オヤジは、車掌の背後に取り付くと、二の腕を首根っ子に絡め、力任せに締め上げ始めた。
ぐ・ぐぐわ〜ッ!と呻く車掌だが、羽交い絞め状態でもがく事もままならない。

「ふへへへ! てめえ、コレでもう・・・オシャカだぜ!」

オヤジは、殺し屋みたいなセリフを弄んで、一人悦に入っている。
車掌の命運は、もはや風前の灯火か?と思われた。
- オムレタス -2003-07-02 05:20:09
その時、 緊迫した調子の車内アナウンスが流れ始めた。 v(^.^)

「御客様に御連絡申し上げます。 只今、 当列車四両目に於きまして、 御客様の一人が、 暴力行為を働いているとの通報に接しました。 目下、 乗務員が安全の回復に努めて居ります。 大変危険ですので、 他の御客様は、 絶対御近付きにならないよう御願い申し上げます。 繰り返します。 只今、 当列車四両目に於きまして・・・」

異変発生の報が、 漸く運転室にもたらされたらしい。

中年男は、 ホンの一瞬・・・アナウンスに気を取られ、 車掌を締め上げる腕の力を緩めた。

(・・・今だ!!)

車掌は、 絶体絶命の体勢から、 起死回生の反撃に打って出た。
- オムレタス -2003-07-03 06:45:50
少女は、 子猫を抱すくめた儘、 その場を立ち去ろうとしない。
不意に、 背後から誰かに肩を叩かれた。

「斎藤、 何してるんだ? 早く逃げろよ!」
「中田君・・・」
「ネコはもう助けたんだろ? こんな所にじっとしてる奴があるかよ」
「ダメよ、 私一人で逃げられない・・・」
「何でだよ? ピアノの練習帳なんか、 斎藤ン家みたいなセレブなら、 いくらでも揃えてもらえるじゃないか?」
「違うゥ・・・! あの人よ」

少女・・・斎藤史織の目線は、 座席に凭れた儘、 意識不明に陥っているケンちゃんを指し示している。

「あの人・・・リオンを救けようとして、 怪我したんだもの。 放ってなんか置けない!」
「構うな! アンナ奴なんか・・・」

史織の同級生 ・ 中田少年は、 ケンちゃんを一瞥すると、 嫌悪を露わにして云い放った。

「斎藤も、 話・・・聞いてンだろ? 先週、 ウチの近くの道路でブッ倒れて、 救急車で運ばれる寸前だった奴・・・。 ソレがアイツだ! 薬かなんかやってるんだ、 きっと。 ロクな奴じゃないゾ!」

史織は、 弾かれたように振り返った。
それから、 怪訝な表情で、 中田少年を見つめた。

「・・・何の話しているの、 それ?」
「えッ?」
「救急車って、 何の事なの?」
「斎藤、 話・・・聞いてないのか? 全然・・・」

今度は中田少年が、 唖然とした表情になった。

「ううん。 初めて聞く・・・」
「ウソだろォ? オマエ・・・マジに何も聞いてないのかヨ!」
「中田君・・・一体何を云っているのよ?」
「良いか? アイツが倒れてるの、 最初に見つけて救急車呼んだのはナ・・・」

少年が、 途中まで云い掛けた時であった。
列車が急ブレーキを掛ける、 大きな衝撃が伝わって来た。
- オムレタス -2003-07-05 19:20:34
「御客様に御連絡申し上げます。 当列車は・・・○○行快速列車ですが、 車内に於いて非常事態が発生しましたので、 安全確保の為、 最寄の●●駅に緊急停車致します。 御急ぎの処、 御客様には大変御迷惑を御掛け致しますが、 御理解の程・・・」

(アナウンス、 遅過ぎるって・・・!)

この時すでに・・・列車は、 けたたましいブレーキの軋みと共に、 ●●駅構内へ滑り込んでいたのである。
今度は全車両が、 乗客達の叫喚の坩堝と化した。

・・・急にもがき始めた子猫を必死にあやしながら、 史織はバランスを失いかけていた。

「斎藤、 ネコなんか離せ!」
「いやよ! もう、 リオンは死んでも離さないから!」
「バカ! 次のショックの方が、 ずっと怖いんだゾ!」
- オムレタス -2003-07-05 19:25:44
乾坤一擲の “二段頭突き” 攻撃によって、 中年男の緊縛から脱した車掌は、 逆必殺技を掛けて、 一気に勝負を決しようとしているところであった。

「ジャ〜マン ・ ス〜プレックス〜〜!!」

列車が完全に停止したのは、 その瞬間であった。

その衝撃は、 必殺技の威力を倍以上に増幅させる効果をもたらした。
車掌と中年男の二人は、 物体が弾かれるように、 数メートル遠方へ飛ばされ、 床に叩き付けられた。
青ガエルと蟇ガエルが、 踏み潰されたような声が聞こえた。


「危ないッ! 斎藤!」

中田少年は、 咄嗟に史織の小さな身体を抱留めたが、 今度は自分がバランスを崩した。
二人と一匹は縺れ合い、 車両の進行方向へ投げ出された。


隣接車両との連絡口付近で、 見物していた子供達もまた小パニックに陥っていた。
その中の一人の手にしていたカメラ付携帯電話が、 床に叩き付けられた。

「ワアア〜! 携帯が! オレの携帯が〜〜!!」

大仰な悲鳴を上げたのは、 ケンちゃんの倒れた住宅街の路上で、 ラジコン ・ カーを操作して遊んでいた・・・あの子供であった。
偶然、 同じ列車に乗り合わせていたところ、 異変の発生を聞いて、 駆け付けて来ていたのである。
- オムレタス -2003-07-06 03:30:50
「中田君・・・大丈夫!?」

史織は身を起こすと、 沈痛な面持ちで中田少年に取り縋った。
この時になって、 ようやく子猫を膝元へ下ろした。

「・・・ソンナにネコが大事かヨ?」

史織とリオンに顔を覗き込まれながら、 中田少年は口を開いた。
背中を強打した筈であったが、 上手い具合にランドセルが緩衝装置になってくれたらしく、 心配はないように思われた。

「斎藤・・・。 オマエの無茶なトコ、 変わってないな。 幼稚園の時から、 ずっと・・・」

中田少年は、 史織の視線を受け止めながら続けた。

「斎藤がピアノ習い始めた時には、 もしかしたら、 斎藤も御姉さんみたいに・・・御しとやかになっちゃうのかな?と思ったモンだけど・・・全然じゃんかよ!」
「御生憎さまでしたね。 どーせ私は、 みゆき御姉ちゃんとは、 何から何まで違いますよ〜だ・・・」

史織の表情や態度からは、 明らかに安堵の様子が覗えた。

「でも中田君は、 みゆき御姉ちゃんの演奏一度も聴いた事ないでしょ? 凄いんだから! ピアノを弾いてる時の御姉ちゃんの迫力って・・・。 普段の御嬢様モードの御姉ちゃんとは、 もう別人になってるの!」

史織は、 興奮するに連れて、 随分増せた口調になっていったが、 その瞳は無心な輝きに満ちていた。

「本来、 ピアニストって、 攻撃的な種族なんですからね・・・」
「良く云うぜ! バイエルもまだ卒業しない中から、 口の聞き方だけは一流気取だもんな」

史織を冷やかしながら、 中田少年は、 ようやく上体を起こした。
- オムレタス -2003-07-12 18:25:35
さながら、 タービュランス (乱気流)・・・。
前章から引続いての大荒れの展開でしたが、 鉄道警察隊の出動を待つまでもなく、 事態は収束された模様ですね。 v(^.^)

心配なのは、 未だ昏睡から醒めないケンちゃんですが、 救護隊員が駆け付けて来て、 適切な処置を講じている様子です。
重傷を負った車掌と中年男の二人は、 既に担架で搬送されて行きました。

応急手当を受けるケンちゃんから少し離れた位置に、 白い子猫を抱いた少女 ・ 斎藤史織が、 不安気な表情で佇んでいます。
史織の傍らには、 彼女をエスコートするように中田少年が寄添っています。

さて・・・。
今し方、 史織と中田少年の会話の中に、 女流ピアニストらしい・・・史織の御姉さんの名が登場しました。

・・・斎藤未由希 (みゆき)。 十八歳。

明敏な読者の方は、 既に御気付の事と思いますが・・・。
物語の冒頭、 ミステリアスな雰囲気を纏って、 ケンちゃんの前に現われた謎の美少女は・・・彼女です。

ケンちゃんと同じく、 数奇な運命を背負わされて生きる、 この物語のヒロインなのです。
- オムレタス -2003-07-20 22:12:30
この辺で、 ヒロイン ・ 斎藤未由希のプロフィールに触れてみる必要がある。


昭和59 (1984) 年9月 (0歳)
指揮者 ・ 天宮光世とピアニスト ・ 斎藤 (旧姓) 真理の間に、 長女として生まれる。 血液型A型。


昭和62 (1987) 年 (満3歳前後)
母 ・ 真理を専任講師として、 ピアノのレッスンに励み始める。

もともと両親からは、 音楽の天分を濃厚に受継いでいた未由希であったが、 その適正な指導もまた功を奏して、 目を見張る程の上達を示した。

未由希の自然で豊かな感受性は、 スポンジが水を吸収するように、 外界の美しいものに感応しては、 内面に写し取っていったのである。


昭和64 (1988) 年12月24日 (満4歳)
天宮家で催された小さな晩餐会の席上・・・。
主客として招いた初老の作曲家の面前で、 未由希は 『賛美歌第2編216番−御使い歌いて』 を演奏してみせる。

未由希の、 大人の世界への御披露目の瞬間でもあったが、 未由希の演奏を聞いている中に、 作曲家の身に露わな異変が生じ始めた。
瘧の様な震えが、 指先から肘・・・肩、 そして全身を駈け巡り出したのである。
そして、 両頬を止め処もなく涙が伝い落ちるのを、 居合わせた人々は目撃した。
作曲家は、 遂に感極まったように、 ソファから身を投げ出すと、 目前のカーペットの上に額付いた。

先ず、 作曲家に随伴していた婦人が、 悲鳴を上げて取り縋った。 婦人は作曲家の実妹であった。

「御兄様! 如何なされたのです? 御兄様!」

次いで、 天宮夫妻が駆け寄り、 作曲家の上体を抱え起こした。
他の招待客達も、 色を成して周りを取り囲んだ。
やがて作曲家の口から、 苦しげな呻きが漏れるのを、 人々は耳にした。
ラテン語の一節であった。

「Libera me! Domine・・・」

作曲家が半錯乱状態に陥った真相は、 結局不明であった。
しかしこのエピソードは、 四歳の少女の爪弾く調べに、 七十代を前にした大音楽家が感涙に咽んだと云う・・・一個の伝説を生むに至ったのである。
- オムレタス -2003-07-21 15:03:08
平成6 (1994) 年3月 (満9歳)
この時期になると、 天宮未由希の天才少女ピアニストとしての令名は、 全国レベルで知れ渡っていた。

国内の名立たるピアノ ・ コンクールのジュニア部門で受賞を繰返し、 将来は日本を代表する女流ピアニストの一人に成長するものと、 誰からも信じられていた。


平成9 (1997) 年3月 (満12歳)
海外への留学を目前にして、 未由希の運命は暗転する。
家族打連れての演奏旅行の途次、 不慮の自動車事故に遭遇し、 両親は共に死亡。
自身は両眼の視力を喪失すると云う悲劇に襲われたのである。


・・・孤児となった未由希は、 母の実家である斎藤家に引き取られた後、 一切の演奏活動から身を引き、 表立った場所にも姿を現わす事はなくなった。
そして、 天宮未由希の名前は、 何時しか世間から忘れ去られようとしていた。
- オムレタス -2003-07-21 15:05:07
しかし、 天宮未由希の才能を惜しむ人々は、 彼女を立ち直らせ、 女流ピアニストとしての華々しい復帰デヴューを飾らせるべく、 画策する。

後に関係者の間で、 “ミッション ・ ブルー” とも、 “嘆きのミッション” とも呼ばれる事になる壮絶なオペレーションが、 未由希自身の意思とは無関係に始動したのである。
- オムレタス -2003-07-21 15:07:15
その強力な推進母体となっているのは、 作曲家で文化功労者の八雲研二郎を創設者とする “財団法人 ・ 八雲音楽振興財団” であった。

八雲研二郎・・・。

十数年前、 天宮家で催された晩餐会の席上、 四歳の未由希の演奏するピアノを聴いて、 錯乱を起こしたとされる老音楽家である。
そして、 その時八雲氏に随伴していた婦人 (=八雲氏の実妹) が、 財団事務局長の八雲翔子女史であった。

ピアニスト ・ 天宮未由希を再生させようとするオペレーションの背景には、 八雲老兄妹の並々ならぬ情熱が介在していたのである。
- オムレタス -2003-07-27 10:27:43
十五年前のあの夜・・・。
天宮家を辞した作曲家と女史は、 専用車のリムジンに揺られながら、 帰宅の途上に在った。
リムジンが銀座四丁目に差し掛かった時、 車窓越しに和光の時計塔が眼に入った。
一瞬、 女史の表情に痛みが走ったかのように見えた。
或いは、 対向車のライトの加減であったかも知れない。
女史は、 視線を傍らの兄に移してから、 静かに訊ねた。

「先程・・・御兄様は、 美穂ちゃんを憶い出されたのですね?」
「御前にも分かったのか?」
「あれから四十何年経ちましょうとも、 可愛い姪の顔を忘れたりは致しません。 ・・・あの御嬢さんは、 美穂ちゃんにまるで生写しで御座いました」

“美穂” と云うのは、 八雲兄妹の長兄 ・ 修一郎の娘で、 二人にとって姪に当たる “少女” であった。

「あの曲は、 私が美穂に教えた曲だ」
「賛美歌の・・・ 『御使い歌いて』 をで御座いますか?」
「いや、 私が教えたのは、 ヴォーン ・ ウィリアムズの 『グリーンスリーブス幻想曲』 を、 ハーモニカ用にアレンジしたものだったが・・・」

作曲家の双眸は、 遠い日の情景を映し出しているらしかった。
- オムレタス -2003-07-27 10:31:28
昭和19 (1944) 年晩秋・・・。
東京音楽学校作曲科に在籍中、 学徒出陣で応召した八雲研二郎は、 愈々戦地へ征つ数日前、 麹町に在る長兄 ・ 修一郎の居宅を訪れた。
修一郎は既に出征していて、 留守宅を守っているのは義姉の早苗であったが、 実の弟を遇するように、 何くれとなく世話を焼いてくれた早苗に、 研二郎は別れの挨拶を述べたかったのである。

その時、 早苗と一緒にいた幼子の美穂に、 僅かの時間を割いて、 ハーモニカの手解きをした。
『グリーンスリーブス幻想曲』 の他にも、 『ユーモレスク』 や 『歌の翼に』 など、 何曲かを教え込んだ。

「あの娘は、 優れた音感を持っていた。 メロディを一度聞いただけで、 正確に音符を記憶し、 自分のハーモニカで吹奏してみせた。 もっと教えて!とせがまれたが、 軽くいなして別れた。 必ずもう一度来るからと・・・。 今日教えた曲を全部覚えていたら、 御褒美として、 新たなレパートリーを披露するからと、 約束したんだ。 生きて帰れる当てなど、 全くなかったのだが・・・」

修一郎の戦死の公報が届いたのは、 その直後の事である。
ビルマ戦線に投入された研二郎は、 イラワジ会戦以降の凄惨な敗残行の中で右脚を失いながらも、 捕虜になる事によって生還を果たした。

麹町の修一郎宅は、 第三次東京大空襲で全焼した。
早苗と美穂の母娘は、 劫火の中に永遠に消息を絶った。
- オムレタス -2003-08-02 21:07:20
「兄 ・ 修一郎は、 私など及びも付かない、 豊かな才能に恵まれた作曲家だった。 出征する直前迄、 魂を傾けてコンチェルトの作曲に取組んでいた。 曲想の一部を開示して貰った事があるのだが、 流麗で繊細な旋律の奏でる、 安らぎと調和に満ちた世界があった。 優雅で荘厳な・・・ミューズの殿堂の一角を見る思いに捉われ、 胸が震えたものだ。 戦争が無かったなら、 偉大な音楽家として大成していたに違いない。 ・・・その兄の一家は死に絶え、 私のような非才の人間が生き永らえている」

作曲家の口調は、 熱病に冒された者の譫言のようであった。

「何を仰るんです! 研二郎御兄様だけでも御帰りになられて、 どんなに良かった事かと思っていますのに・・・。 それでなければ、 私も今日まで生きては来られませんでした」
「御前にも、 随分と苦労を掛けてしまったな」

作曲家は、 あらためて実妹に柔和な眼差しを向けた。

「御前も、 戦地から帰らぬ許婚者を待ち続けた儘、 とうとう青春期を空費してしまったじゃないか。 まるでソルヴェイクの様に・・・」
「いいえ・・・。 私は御兄様の御傍に居られて、 御世話をさせていただけましたから、 十分に幸せで御座いました」

最前、 和光の時計塔 (旧服部時計店ビル) を眼にした瞬間、 フラッシュ ・ バックの様に女史の脳裏に甦ったものは、 一面の廃墟と化した東京の灰色の光景だったのである。


- オムレタス -2003-07-27 12:47:55
第四章 涙のカノン v(^.^)


 蛹化 (むし) の女


 月光の白き林で 木の根掘れば蝉の蛹のいくつも出て来し ああ

 それはあなたを思い過ぎて変わり果てた私の姿

 月光も凍てつく森で 樹液すする私は虫の女


 いつのまにかあなたが 私に気づくころ

 飴色の胎もつ 虫と化した娘は

 不思議な草に寄生されて 飴色の背中に悲しみの茎がのびる


 月光の白き林で 木の根掘れば蝉の蛹のいくつも出て来し ああ

 それはあなたを思い過ぎて変わり果てた私の姿

 月光も凍てつく森で 樹液すする私は虫の女


       (作詞:戸川 純 作曲:Pachelbel)
- オムレタス -2003-07-27 12:50:48
未由希の、 ささやかなステージ ・ デヴューの場面に話を戻す。
天宮夫人の演奏による 『アヴェ ・ マリア』 (グノー編曲) が終了した後の事で、 来客達はその豊かな余韻に浸っていた。

未由希は、 客間の中央へ軽やかに進み出ると、 作曲家の前で、 小さな身体を二つに折って、 御辞儀をした。
スミレ色の大きなリボンが揺れた。
それから、 もう一度視線を作曲家の面に戻した。
物怖じしない、 好奇心に満ちた眼であった。

黒々と濡れた瞳。

・・・と見えたのは、 一瞬の錯覚。
実は、 その瞳は栗色である事に気付いた時、 未由希はもうピアノの方向へ身を翻していた。

ともあれ未由希の印象は、 作曲家に在りし日の美穂の姿を眼前にしているかのような倒錯を覚えさせたのである。
- オムレタス -2003-07-27 14:13:06
「美穂が、 四十四年前の私との約束を未だに覚えていて、 戻って来たのかと思ったんだ。 そんな馬鹿な事が、 ある筈はないのにな。 ・・・年甲斐もなく取り乱してしまった」

松葉杖を握る作曲家の手に、 覚えず力が籠もった。

「いいえ、 あの御嬢さんは、 本当に美穂ちゃんの生まれ変わりなのかも知れませんよ」
「如何したのだね? 御前まで、 急に突飛な事を・・・」
「私には、 神様が御引合わせして下さったような気が致します。 今夜は、 特別な夜で御座いますから・・・」

作曲家の相好が、 ようやく崩れた。
唐突な調子で、 “聖夜の奇蹟” を説いた女史が、 何とも滑稽に感じられた。
幼少時に洗礼を受けている天宮夫妻と異なって、 女史は基督者ではない。

「・・・だとしたら、 今度は私の方が約束を果たさねば成るまいな!」

作曲家の表情には、 喜色が甦っていた。

「あの娘の為に、 曲をプレゼントする事にしよう。 あの娘が、 本格的なステージ ・ デヴューを迎える日の記念としてね。 十年後か、 十五年後になるか分からないが・・・」

女史もまた、 面を輝かせながら応じた。

「素敵な思い付きです事・・・。 将来が楽しみな御嬢さんですものね。 二人で、 末永く見守らせて頂きましょうよ」

リムジンは、 例年よりもイルミネーションの光の少ない、 聖夜の市街を走行していた。
- オムレタス -2003-08-17 18:18:33
是が、 昭和63 (1988) 年12月24日夜の出来事である。

八雲老兄妹は、 すでに未由希の才能の開花を予感していたが、 それから略八年後、 幸福に包まれた天宮家を襲う恐ろしい悲劇は、 誰にも予測する事が出来なかったのである。

そして物語は、 平成15 (2003) 年2月の時点に進む。
場面は、 時ならぬ乱闘劇のトバッチリを受けて、 意識不明に陥ったケンちゃんが担ぎ込まれた救急指定病院である。
- オムレタス -2003-08-17 18:19:56
バスケットの中で、 白い毛糸玉のように身体を丸めたリオンは、 安らかな寝息を立てて眠り込んでしまっている。


御使 (みつか) い歌いて 牧人 (まきびと) 集えば

愛しき嬰児 (みどりご) 静かに眠れ

今ぞ迎えん 我らの君をば

共に歌わん 我らの主をば〜〜♪


史織は、 右手の指でリズムを取りながら、 1フレーズを歌い終えると、 優しく微笑んで、 そっと蓋を閉じた。
それから、 少し不安気な表情になって周囲を見回した。
正規の診療時間を過ぎ、 閑散とした総合病院のロビーに、 スクール帽の少女が一人取り残されている情景は、 誰の眼にも奇異なものと映る。
史織は所在のない儘、 白々とした壁面を飾るマチスやドガの複製画の上に視線を移していると、 救急外来病棟から中田少年が引き返して来た。
中田少年は、 史織にホット ・ ココアのハンディ缶を差し出してから、 情況報告に入った。

「安心しろよ。 精密検査の結果じゃ、 何の異常も認められなかったってさ。 御巡りさんからの又聞きだけどナ」
「未だ、 意識は戻らないんでしょ?」
「心配要らないよ。 それも時間の問題だって。 何してんだ? 代金なんか良いから、 温かい中に飲めよ」
「それじゃ・・・いただくわね」
「これ飲んだら、 もう帰ろうぜ。 意識が戻ったとしても、 今夜は面会謝絶だよ。 ネコだって、 早く家に連れて帰ってやらないと可哀想じゃないか。 今日から新しい家族になるんだろ?」
「うん。 私も、 今そう思ってたの」
「どうしても御礼を云いたいんなら、 明日あらためて出直せば良い。 俺も付き合うからさ」
「ごめんね。 すっかり中田君に迷惑掛けちゃって・・・。 その代わり、 帰りのタクシー代は持つからね」

(ウワ! ここからタクシーに乗る気だ。 セレブの金銭感覚には負けるゥ・・・)

中田少年は、 少したじろいでから、 思い出したように付け加えた。

「御巡りさん同士で話し込んでるの、 チラッと聞いたんだけどさ。 あの大学生、 結構有名人らしいんだ。 何でも、 “十年前のあの事件” のたった一人の生存者なんだって・・・」

ココア缶を口元に運び掛けていた史織は、 一瞬手を止めた。

「何なの? “十年前のあの事件” って・・・」
- オムレタス -2003-08-17 18:22:02
「サア、 知らないよ。 未だ俺達の生まれる前の事じゃんか。 ・・・だけど、 意外と大物なのかも知れないな、 あの大学生」
「あの人、 絶対悪い人なんかじゃないって、 私信じてる。 ほんの一瞬だったけど、 眼を見て分かったの。 今まで会った事のない、 ものすごく優しい、 淋しげな眼をしていた。 ・・・みゆき御姉ちゃんだって、 それを強く感じたと思うの」
「全く奇遇だよな。 姉妹で同じ人間と接点を持ってるなんてさ。 出会った時の状況も、 何だか似通ってるし・・・」

一週間前、 住宅街の路上で昏倒したケンちゃんを、 姉の未由希が救った経緯に就いて、 史織は中田少年の話で初めて知ったのである。

「みゆき御姉ちゃん、 何にも話さなかったもの。 あの日の御姉ちゃんは、 御夕食が済むと、 何時ものように御部屋に引き取って、 その後で 『主よ、 人の望みの喜びよ』 を演奏していた・・・」
「何だい? ソレ」
「バッハの 『カンタータ第147番』 の終曲に当たる部分よ。 もともとバロック音楽は、 御姉ちゃんのホーム ・ グラウンドなんだけど、 その中でも御得意のスコアなの。 同じバッハなら、 『平均率クラヴィーア曲集』 とか 『誓いのフーガ』 とかもね。 パッヘルベルの 『涙のカノン』 も良く弾いてる。 でも、 御姉ちゃんの演奏で一番圧巻なのは、 何と云っても・・・」

興奮し始めると止まらなくなる史織の口上に、 中田少年は悲鳴を上げた。

「何だよ? 俺の着いてけない話しないでくれよ!」
- オムレタス -2003-08-17 20:47:11
史織とリオン、 中田少年は、 タクシーを呼寄せると、 ケンちゃんが加療中の救急指定病院を後にした。
史織は、 クラスメイトと二人で、 長距離をタクシーに揺られて帰ると云う体験が嬉しいらしく、 幾分緊張気味の中田少年と対照的に、 無心に瞳を輝かせていた。

「でも、 斎藤の御姉さんって・・・ホントに素晴らしい人だったんだな。 俺達の年齢の時には、 もう天才少女ピアニストって呼ばれてたんだろう? 事故にさえ遭わなかったら、 今頃は世界の檜舞台で活躍していたに違いないって云うじゃないか」
「・・・中田君、調べたのね?」
「ネット検索してたら、 偶然見つけたんだ。 赤の他人なら見過ごしていたと思う。 だけど、 オレには斎藤の御姉さんに間違いないって分かった。 ・・・悪かったかな?」
「ううん、 全然・・・。 大歓迎よ! みゆき御姉ちゃんの事、 一人でも多くに知ってもらえたら、 その分嬉しいもの・・・」
「御姉さんも大変だったんだね。 随分と・・・」

中田少年は、 珍しく厳粛な口調で語を継いだ。

「何で、 あの優しい人が、 あんな不幸な目に遭わなけりゃならないのか、 不思議で堪らないよ」

心なしか、 史織の表情も少し沈んでいるように見えた。

「小学校に入る前だった。 みゆき御姉ちゃんとは、 ほんとうは従姉妹同士なんだって聞かされたのは・・・。 こんな事云ったら、 中田君に馬鹿にされるかも知れないけど、 御姉ちゃんの眼が見えない事を知ったのも、 その時だったの。 みゆき御姉ちゃんって、 物凄く勘が良いんだもの。 ずっと眼が見えると思い続けてたんだ。 滅多に外出しないから、 身体が弱いのかな?とは感じてたけど」
「分かるよ・・・。 人と話す時も、 声から相手の位置を推し量って、 一人一人に必ず目線を合わせて応対するんだもんね。 とても眼が不自由だなんて思えないよ」

史織は、 前方に視線を向けた儘、 自分自身に云い聞かせるように呟いた。

「・・・でもね。 みゆき御姉ちゃんは、 何時までも史織のほんとうの御姉ちゃんだと思ってる。 みゆき御姉ちゃんだって、 史織の事をたった一人の妹だと思ってくれてるんだもの」
- オムレタス -2003-08-17 20:48:35
両親を喪った未由希が、 斎藤家の養女として迎えられたのは、 彼女が満十二歳、 史織が満三歳の時である。
史織が、 未由希を姉として慕い始める様になったのは、 何時頃からであろうか?

裕福な家庭にのみ許される事であるが・・・。
斎藤家に在っては、 退院後も相応の機能回復訓練が必要と見られていた未由希の為に、 医師、 看護婦、 理学療養士、 介護士、 臨床心理士等の医療 ・ 介護スタッフが常駐していて、 綿密なプランに基づくケアが実施されていた。
更に、 家庭教師や家政婦も含めて、 未由希の身辺から人の気配が絶える事はなく、 史織との交流の機会も中々訪れなかった。

未由希が、 漸く一人でピアノと向い合う時間を持てるようになったのは、 忌わしい事故から一年が経過しようとする頃であった。
- オムレタス -2003-08-17 23:54:26
「ねえ、 みゆき御姉ちゃん。 史織が、 初めて御姉ちゃんの御部屋に遊びに来た日の事憶えてる?」

小学校二年が終了した春休み・・・。
史織は、 未由希からピアノの個人レッスンを受ける機会に恵まれたが、 その合間に何気なく訊ねてみた事がある。

「ええ、 とても良く憶えているわよ。 史織ちゃん」

スノウ ・ ホワイトのセーターの上に、 豊かな黒髪を波打たせた未由希は、 表情を輝かせて答えた。
胸にクロス・ペンダントを下げている以外、 装身具は一切付けていない。

「あれは、 御姉ちゃんが退院して来た翌年の春だったわ。 御姉ちゃんが、 一人でピアノを弾いているとね。 御部屋の入り口の所で、 誰かがそっと見ているのに気付いたの。 すぐに史織ちゃんだなと思ったわ。 だから、 名前を呼んでみたの。 そうしたら史織ちゃん、 吃驚して逃げちゃったじゃない? それが最初だったの」
「史織、 全然憶えてない・・・」
「まだ四歳位だったものね」
「史織だって、 どうして分かったの?」
「だって・・・。 御家の中で足音を立てないで歩けるのは、 史織ちゃん一人しかいないもの」
「でも、 足音がしないんなら、 どうして史織がいるのが分かるの?」
「自然に感じるの。 今でもそうだけど、 史織ちゃんが傍にいる時って、とっても暖かいものを感じさせてくれるから・・・」
「史織から、 強力な遠赤外線か何か放射されてるわけ?」
「うふふ・・・。 そうかも知れないわね」

未由希は、 史織の肩に添えていた右手に少し力を込めると、 その身体をそっと胸元に抱え込んだ。
三編みのお下げが、 微かに揺れた。

「御姉ちゃんも、 何時も暖かいね」
「それからも、 同じ事が二、 三度あって・・・。 一度捉まえてみようと思っていたの。 それで御姉ちゃん、 一計を案じてみたの」
「ひどーい。 史織・・・まるで悪戯な猫みたいじゃないの?」
「御免なさいね。 だって史織ちゃん・・・すぐ逃げちゃうんだもの。 御姉ちゃん、 どうしても御話がしてみたかったの」

未由希は、 史織の頭部にもう一方の手を添えると、 優しく撫ぜ始めた。

「あの頃の御姉ちゃんね・・・。 亡くしたものを取り戻そうとして、 夢中になっていたの。 音楽が愉しいものだと云う事も、 何時か忘れかけていたの。 そんな時だったのよ、 史織ちゃんが来てくれたのは・・・」
- オムレタス -2003-08-18 00:22:28
その日・・・。
未由希が、 またも史織の熱心な視線を意識したのは、 バッハの 『管弦楽組曲第2番 ポロネーズ』 を弾き終えた時であった。

(今日こそは・・・!)

意を決した未由希は、 ルロイ ・ アンダーソンの 『ワルツィング ・ キャット』 を弾き始めた。
案の定、 キャッチーなメロディに惹かれたらしく、 そっとカーペットを踏んで近付いて来る気配が伝わって来た。
手を伸ばせば掴まえられそうな位置から、 一途な視線が注がれているのが感じられた。
未由希は演奏を続けながら、 話し掛けてみた。

「史織ちゃん・・・でしょ?」

相変わらず返事はない。
しかし、 逃げようとする素振りも見られなかった。
- オムレタス -2003-08-18 01:17:40
「史織ちゃんも、 ピアノを弾くの?」
「ううん・・・。 まだ習い始めてないの」
「それじゃ、 此方へ来て、 御姉さんと一緒に弾いてみない?」
「御姉ちゃまのピアノに触っちゃいけないって・・・ママから云われてるの」

未由希は演奏の手を止めると、 あらためて史織に微笑みかけた。

「大丈夫よ。 御母様には私から御話して上げるから・・・。 此方へいらっしゃいな」

差し招くと、 存外簡単に寄って来た。
未由希は、 席を史織に譲って、 その傍らに立った。
史織の肩へ両手を添えながら、

(やっと捉まえた・・・)

と思っていた。

四年前になる。
叔母夫婦 (=現在の養父母) が、 生まれて間もない史織を伴って、 御年始の挨拶に天宮家を訪れたのは・・・。
その時、 ほんの少しの間、 史織を抱かせてもらった。
自分にも、 こんな可愛い妹が欲しいと、 痛切に願った事を想い出していた。

運命の試練は、 自分から両親を奪い、 視力を奪ったが、 一つの夢は叶えてくれたのだと思った。
- オムレタス -2003-09-30 05:50:34
ケンちゃんの意識が回復したのは、 史織と中田少年が帰路に就いてから一時間後の事であった。
担当医の問診を受けた後、 待機していた警官の事情聴取に応じた。
史織達の事を知ったのは、 その際である。

「小学校三年位の女の子がね。 どうしても貴方に会って御礼を述べたいと、 同級生らしい男の子と一緒にロビーで待っていたんです。 余り遅くなるといけないので、 二人とも帰しましたが・・・」
「僕に・・・御礼を?」
「ええ。 あの女の子の連れていた子猫を救けようとして、 貴方は大変な災難に遭ってしまわれた。 ・・・と云う事で、 貴方の容態を非常に心配して、 駅から着いて来たんですよ。 何とも健気な御嬢さんじゃありませんか?」
「そうでしたか・・・」
「明日、 あらためて御見舞いに上がると云っていましたよ。 もし差し支えなければ、 ほんの少しの間で結構ですから、 面会に応じて頂けないでしょうかね? 貴方の元気な姿を見たら、 定めし安心する事と思いますので・・・」
「良く分かりました。 御安い事です。 ・・・ただ、 事実は一寸違います。 僕が車内の争いに巻き込まれたのは、 僕自身の不注意によるものなんです」

ケンちゃんとしては、 子猫を救う心算はなかったのである。
あの少女の無謀な行動を制止しようとしたに過ぎない。
少女から感謝されるのは筋違いだと思った。
・・・そうだ。
他人から感謝されるなんて、 全く以って筋違いだ。
自分は如何なる意味に於いても、 感謝や賞賛を受けるに値する人間ではないのだ。

(・・・自分ほど罪深い人間はいない)

愛する者を・・・真に守るべき者を、 守ろうとしなかった。
その責めからは、 どんなに時が経っても逃れる事は出来ない。
生きている限り、 ずっと負い続けて行かなければならないのだ。
- オムレタス -2003-09-30 05:55:55
警官は、 終始ケンちゃんに好意的な姿勢で、 聴取を進めた。
察するに、 ケンちゃんの経歴について知悉している様子であったが、 殊更 “十年前の事件” に触れようとはしなかった。

ただ、 十代に入ってからのケンちゃんの “表彰歴” を取り上げ、 最大級の賛辞を以って賞揚した。


・・・ケンちゃんは過去数年の間に、 人命救助の功績によって、 消防署から二回、 警察署から一回、 感謝状を贈呈されているのです。 v(^.^)


「偶々・・・そう云う場面に遭遇してしまう事が多いんです。 如何云う訳なのか・・・」

ケンちゃんは、 自嘲気味に呟いた。
- オムレタス -2003-09-30 05:57:44
感じるのだ。 シグナルを・・・。
懸命に救いを求めるシグナルを、 自然に感知してしまうのだ。
それは、 時間と場所を選ばない。
海や山などの行楽地に出向いても、 市街地の舗道を歩いていても、 或いは公園のベンチシートに凭れていても・・・。
突然発せられる心の叫びを、 鮮明に聞いてしまうのである。

しかし、 その事を警官に説明した処で、 信じては貰えないと思ったから、 言葉を濁したのである。

「いや、 一般市民の方々が不測の事態に直面した際、 即座に冷静で的確な行動を取ると云うのは、 非常に困難な事なんです。 平常時から心の準備を万全にしていないと、 容易に出来るものではありません」

警官の方では、 ケンちゃんの謙遜と受け取ったらしく、 尚も賞揚するを止めない。

「貴方の場合、 日頃から強固な責任感と倫理観が涵養されていて、 それが土壇場での見事な勇気と行動力として現われたものに違いありません。 その年齢で、 御自身を其処まで高められて、 尊い人命の救助に貢献を重ねられているのは、 本当に素晴らしい事です。 私共としても、 敬服するばかりですよ」
「・・・そうでしょうか?」

ケンちゃんは、 次第に苛立ちに似た感情を覚え始めていた。

「僕のした事なんか、 多寡が知れています。 必死に救いを求める声を耳にしながら、 救えなかった場合の方が多いんですから。 僕が、 あの人達の発する “信号” を感じ取った時点で、 躊躇いなく行動を起こしていたら・・・。 或いはもっと感覚を研ぎ澄ませて、 それらの信号に十分な注意を払っていたなら・・・。 遥かに多くの生命を救えた筈なんです!」
- オムレタス -2003-10-04 07:40:40
「自分一個の “安心立命” も得られぬ者が、 全人類の苦悩を背負って立とうとでも云うのか? 万人の魂の叫びに膚接しながら生きて行く覚悟でいるのか?」

サークル仲間の種村が、 是の場に居合わせたなら、 冷ややかに云い放ったに違いない。
ケンちゃんには、 その哄笑まで聞こえるようであった。

「理性とは、 何のためにある。 雑多な外界の刺激の中から、 自己に有用な情報のみを選別し、 一切の不要物は取り捨てる作業に用いる機能だろう? 他者の発する悲鳴 ・ 叫喚に耳を傾ける間が有るなら、 真剣に己の身を案じたら如何なんだ? 人生に明確な指針も、 目的意識も持とうとしないから、 余計なものが聞こえて来るんだ」

種村は、 数少ないケンちゃんの “理解者” とも云えたが、 二人の間には決定的な価値観の相違があった。
- オムレタス -2003-10-05 23:56:11
「しかし、 それは・・・決して貴方一人の責任ではありませんよ」

警官は、 ケンちゃんの視線を真っ直ぐ受け止めながら、 穏やかに言葉を返した。


・・・ケンちゃんは、 他人と会話をする際、 決して相手の眼から視線を逸らす事はないのです。 v(^.^)


「ただ一人の人間に、 世の中で起きている不幸や悲劇の全てに立ち会うなんて、 それは無理な話です。 市民社会の一員として、 果たさなければならない義務や責任は少なくはない。 それに就いて貴方が非常に強い自覚を御持ちなのは、 本当に敬服に値する事です。 しかし貴方は、 個人の対応し得る限度を、 遥かに超えるノルマを、 自らに課そうとしています」

警官・・・渡部巡査長も又、 “理性の言葉” を以ってケンちゃんを諭した。

「それは本来、 私共も含めて・・・社会全体で取り組んで行かなければならない問題なんです。 貴方は、 何もかも御自分の責任の様に云われますが、 貴方としては真摯に・・・誠実に、 尽くせるだけの力を尽くして来られたんですから、 何ら御自分の良心に恥じる処は有りません。 むしろ、 その事を誇りに出来る筈なんですよ」

その言葉には・・・しかし、 市民生活の安全と社会秩序の維持のため、 日夜身を挺して働いている人間の、 誠意と熱情が漲っていた。

「貴方は、 未だ御若い上に、 極めて清廉で誠実な方ですから、 物事を必要以上に深刻に捉えて、 御自分を追い詰めてしまわれるのでしょう。 しかし、 そんなにも絶えず張り詰めていたのでは、 身も心も持ちはしませんよ」
- オムレタス -2003-10-05 23:59:11
「巡査長の云う通りよ。 九十九 (つくも) 君」

不意に、 張りのある女性の声が響いた。
二人が視線を転じると、 フォーマル ・ スーツに身を包んだ二十代半ばと思しい女性が、 病室の入り口に立っていた。

「貴方は、 何時だって生真面目過ぎるもの。 もう少し柔軟に物事を考えないと・・・」
「佐治田・・・さん!」

ケンちゃんは、 思わぬ訪問者の姿に、 寝台から身を起こし掛けていた。

渡部巡査長は、 椅子から立ち上がると、 挙手の敬礼を以って女性を迎えた。
女性・・・警視庁捜査第一課 ・ 佐治田慧子警部補は、 上体を十五度傾けて答礼を返すと、 にこやかに微笑んだ。

「事情聴取は、 もう御済になられたんでしょう? 渡部巡査長。 もし宜しい様でしたら、 私もこの青年から伺いたい事が、 少々あるんですけれど・・・」
- オムレタス -2003-10-12 10:17:05
「・・・相変わらずね。 九十九 (つくも) 君。 鉄道警察隊から連絡を受けた時は、 ちょっと驚いたけど、 大事に至らなくて何よりだったわ」

佐治田慧子は、 携えて来た果物籠をサイド ・ テーブルの上に置いて、 寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。
退室した渡部巡査長と入れ替わる格好であった。

「貴方って青年も、 不思議と事件に巻き込まれるケースが多いわね。 外見から受ける印象は、 ストイックな文学青年風・・・。 品行方正で、 他人との争い事は好まない。 ドストエフスキーの様な破滅型とも、 アルチュール ・ ランボーの様な放蕩型とも、 一線を画しているんだけど・・・。 如何して、 波乱を呼び寄せてしまうのかしらね?」
「僕の方で聞きたいですよ。 今回に限っては “波乱” に介入する意思なんて、 毛頭無かったんですから・・・」
「・・・でも、 静観するに忍びない、 何らかの事情が存在したのね。 結局、 何時もの貴方らしく行動せざるを得なくなったんでしょ。 そんな処じゃないの?」
「御想像に任せます」
「貴方は、 そう云う青年だもの。 普段は周囲に対して無関心を装っているけれど、 他人の窮境を目の前にすると、 放っては置けなくなる。 本当は、 人を思いやる気持ちを、 あふれる程心の内に持っていながら、 それを上手に表現する事が出来ないので、 苛立のみが募っている」
「プロファイリングするのは、 止して下さい」

ケンちゃんは、 やや改まった調子で語を継いだ。

「本日は、 警視庁の敏腕警部補が、 僕に何の御用ですか? 御見舞いだけが目的じゃないでしょう」
「無理に、 他人行儀にならなくて良いの。 ・・・貴方の御姉様と私とは、 竹馬の友だったんだから。 九十九君に贈る記念品、 本人の希望を確かめた上で決めようと思って・・・」
「記念品って・・・何です?」
「貴方が、 晴れて成人を迎える日の記念品よ。 来月でしょ。 貴方の満二十歳の誕生日。 ・・・何なの、 その表情は? ひょっとして “俺の誕生日など呪われるが良い” なんて思ってるんじゃない?」


・・・ケンちゃんの誕生日は、 三月十三日なのです。 名前が “九十九” だから、 それに因んで九月十九日と云う訳では・・・有りません。 v(^.^)
- オムレタス -2003-10-12 10:19:52
「貴方の事だから、 きっと成人式にも出席しなかったんでしょう?」
「今時、 胸を時めかせて成人式を待ち望む若者なんて、 却って希少種ですよ。 僕が特別な訳じゃない。 喜び勇んで式場に繰り出して行くのは、 “破戒” の儀式と勘違いしている連中位のものです」
「やっと、 九十九君らしいジョークが出たじゃないの!」

(別に、 ジョークの心算じゃ・・・)

「さア、 プレゼントは何が良いのかな? 好きな物を云って御覧なさい」
「佐治田さん御愛用の・・・ノート ・ パソコンの御古でも頂戴出来るなら、 無上の光栄です」
「そんな物じゃなくて、 他に何か無いの?」
「如何してです? パソコンの御古を人に譲ったら、 守秘義務に抵触する懸念でも有るんですか?」
「そう云う問題じゃないの。 貴方の人生の門出なんだから、 遠慮する必要は全然ないのよ。 もう少し高級な物を、 御強請して御覧なさいな」
「現在の僕にとって、 ノート ・ パソコンは超高級品ですよ」
「・・・じゃ、 最新の機種を選んで上げる事にするわ」

慧子は微笑を浮かべると、 あらためて姉の様な視線をケンちゃんの面に注いだ。

「貴方の身元保証人としての役目も、 これで一段落するわ。 九十九君もそろそろ、 猶予期間 (モラトリウム) は卒業する心構えを持たないとね」
- オムレタス -2003-10-12 10:22:42
「佐治田さんには、 本当に御世話の掛け通しでした。 問題児が手離れして、 さぞかし肩の荷が降りた事でしょう?」
「如何して、 そんな事を云うの? 貴方は、 ずっと品行方正な青年だったじゃない」
「佐治田さんは、 御自分の職務に専念なさって下さい。 僕の宿命は、 僕自身が負い続けて行きますから・・・」
「途端に、 一人前の口を聞くじゃないの」
「僕の事で、 これ以上の負荷を御掛けしたくはありません」
「貴方の事は、 家族同然に思っているのよ。 少しも負荷とは感じていないわ」
「僕と深く関わると、 何時か累が及んでしまう様な気がします。 僕には、 それが怖い」
「身の危険を恐れていて、 警察職務の遂行に当る事が出来ますか?」
「そうじゃない。 佐治田さんを、 僕の姉の様な目に遭わせたくはないんです」
「御姉様を・・・。 “みゆき” の事を、 未だ気に病んでいるの?」
「そうです。 十年前の夏、 僕の身代わりになって死んでいった姉・・・。 僕が守ろうとして、 守り得なかった姉の・・・ “みゆき” の事は、 一日だって意識から去りはしません」
「何時になったら解ってくれるの? ・・・みゆきの死は、 貴方の責任なんかじゃないわ!」
「僕が、 姉の代わりに死んでいれば良かったんです!」

ケンちゃんの眼は、 何時か憑かれた様な光を帯び始めていた。

「十年前のあの日・・・。 僕は、 武器を手にしていながら、 何もする事が出来ませんでした。 ただ震え慄いているだけでした。 等身大の空間に身を潜め、 じっと息を殺して、 殺人者の立ち去るのを待っていました。 一秒一秒が、 数分にも感じられた。 ・・・姉の危急を察して、 アイスピックを翳して躍り出たのは、 何もかも手遅れになった後の事だったんです!」


               ◇               ◇


窓から差し込む白い月の光が、 照明を落とした室内の情景を、 淡く夢幻的に演出している。
幻想空間を、 流麗なピアノの調べが、 月光と調和しながら流れ去って行く。
パッヘルベルの 『涙のカノン』 であった。

未由希は、 そっとカーペットを踏んで近付く来訪者の気配を、 意識の端に捉えていた。
演奏を続けながら、 話し掛けてみる。

「史織ちゃん・・・でしょ?」

やや有って、 予期していた声が応答する。

「ねえ、 みゆき御姉ちゃん・・・」
「なあに?」
「さっきね。 ママの前では、 黙っていたんだけど・・・」
「解っているわ。 御姉ちゃんに相談したい事が有ったんでしょう?」

帰宅した史織の報告は、 斎藤家に浅からぬ衝撃をもたらしていた。
両親は直ちに、 史織の遭遇した列車内の乱闘事件に就いて、 警察に事実関係の確認を行った。
その結果、 明日学校が引けてから、 母親が史織に付き添って、 入院中のケンちゃんを見舞いに行く事となったのである。
処で、 母親への報告の中で、 能弁な史織が珍しく云い澱んでいる部分が有るのを、 同席した未由希は明敏に感じ取っていた。

「待っていたのよ。 後で、 必ず史織ちゃんが訪ねて来ると思って・・・」
「みゆき御姉ちゃんって・・・。 どうして、 何時も史織の考えている事が解るの?」
「自然に感じるの。 史織ちゃんが傍にいるだけで・・・」

未由希は演奏の手を止めると、 あらためて史織に微笑みかけた。

「じゃあ、 史織の御話の内容・・・聞かないでも、 もう解ってるの?」
「そこまでは、 無理よ。 それに第一、 史織ちゃんから御話を聞く愉しみがなくなっちゃうでしょ?」
「ふーん。 そう云えば、 そうだもんね」

次の瞬間、 史織は息を弾ませて、 未由希の傍らへ駆け寄っていた。

「ねえ、 みゆき御姉ちゃんにだけ知らせたい事があるの。 御姉ちゃんのきっと吃驚するような事・・・」


- オムレタス -2004-03-07 21:45:37
第五章 誓いのフーガ v(^.^)


あらすじに代えて...φ(.. )


少年期の凄愴な記憶と、 意識の深層に棲む “怪物” の影に脅える青年 ・ 九十九 (つくも) 健一。

突然の事故による失明。 最愛の両親の死・・・。
残酷な試練を乗り越え、 ピアニストとしての再起に賭ける少女 ・ 未由希。


共に数奇な境遇を生きる二人は、 束の間の出会いの中で、 互いに孤独な魂の波動を意識し合う。

親しく言葉を交わす事もなく別れるが、 運命の糸は、 緩やかに絡み合い、 周囲の人々を巻き込みながら、 二人を着実に結び付けようとしていた。
- オムレタス -2004-03-07 22:06:12
オモな登場人物 v(^.^)


【九十九 健一 (つくも けんいち) 】

昭和58 (1983) 年3月13日神奈川生 血液型 AB型

通称 “ケンちゃん” だが、 目下・・・誰からもそう呼ばれてはいない。
新世紀大学人文学部二回生。

平成4(1992)年の夏・・・。
日本中を震撼させた連続猟奇殺人事件によって、 家族全員を失う。
ケンちゃんは、 アイスピックを振るって、 殺人鬼に立ち向かい、 凄絶な死闘の果てに是を打ち倒す。

当時、 『九歳の少年の、 奇跡のサヴァイバル』 と報道される。
しかし、 “小さな英雄” なる賞賛とは裏腹に、 一人だけ生き残った事への “自責の念” に苛まれ続けて来た。
同時に、 自分の中に潜む “怪物” の気配・・・未知なる力の作用に、 絶えず脅かされている。

内面で交差する苦悩と不安。 ケンちゃんの青春に寸刻も心の安らぐ時はない。


【斎藤 未由希 (さいとう みゆき) 】

昭和59 (1984) 年9月27日東京生 血液型 A型

指揮者の父とピアニストの母から、 音楽的資質を濃厚に受け継ぐ。
早くから、 天才少女ピアニストとしての令名を謳われ、 その将来を嘱望されていたが、 自動車事故によって失明。 同時に両親を喪う。

一度はピアニストを断念した未由希で有ったが、 彼女の才能を惜しむ人々の善意と情熱に支えられ、 復帰デヴューの決意を固める。
そのためのオペレーション・・・ “ミッション ・ ブルー” は、 現在最終過程に在る。


【斎藤 史織 (さいとう しおり) 】

未由希の妹 (実際は従姉妹)。 某私立小学校三年生。
クラスメイトから白い子猫を譲り受けての帰路、 列車内乱闘事件に遭遇。 ケンちゃんに危難を救われる。

小さな身体の中に、 大人顔負けの意志の強さと果敢な行動力を秘めていて、 時折冒険少女に豹変しては、 周囲の人々をうろたえさせる。

幼女期は、 意外と人見知りするタイプであった。
未由希と云う “姉” を得た事によって、 活発な性格の少女に変貌した。
猫の様に気配を消して、 屋内を歩行する “特技” が有るらしい。


【佐治田 慧子 (さじた けいこ) 】

警視庁捜査第一課に所属する敏腕女性警部補。
的確なプロファイリングと卓越した指導力を以って、 犯罪捜査の陣頭指揮に当たり、 数々の難事件を解決に導いた実績を有する。

十年前の事件で、 非業の死を遂げたケンちゃんの姉 ・ みゆき (享年十七歳) とは、 女学校の同窓で、 無二の親友であった。
女子大時代には、 ケンちゃんの “家庭教師兼心理カウンセラー” を務めていた事もある。
実の姉の様に、 ケンちゃんの身を気遣い、 物 ・ 心両面に渉ってサポートを惜しまない。


【種村 要一 (たねむら よういち) 】

新世紀大学法学部三回生。 専攻は犯罪心理学。
キャンパスに在って、 ケンちゃんの凄愴な過去を知る、 ただ一人の人間である。

司法試験現役合格を確実視される程の秀才であるが、 悪魔的な一面を備えていて、 ケンちゃんの意識の深層に眠り続ける “怪物” を覚醒へ導く事に、 目下の関心は向けられている。
- オムレタス -2004-03-07 22:07:44
平成15 (2003) 年3月・・・。

列車内の乱闘事件から、 二週間が経過していた。
文京区内に在るチャペル風の喫茶室を借り切って、 『 “新世紀大学ミステリー ・ サークル” の冥福を祈る会』 なる催しが開かれていた。

中心メンバー四人を失った上に、 退会者が相次いで、 サークルとしての機能は停止状態・・・。
残存会員らは合議の結果、 来年度以降の存続は困難と判断、 自主解散の決定を下したのである。
- オムレタス -2004-03-07 22:17:28
「それでは、 四人の先輩方の御冥福を祈って、 会員一同で黙祷を捧げる事に致しましょう」

ティファニーのステンドグラスやランプが、 アンティークな雰囲気を醸し出している室内・・・。
鹿爪らしい表情で、 司会進行を務めているのは、 幹事の二回生 ・ 山川である。

何処から調達して来たのか、 カトリック宣教師のコスチュームに身を包んでいる。
云わずと知れた “イエス ・ 玉川” ネタで有った。
こんな場合に不謹慎な・・・との思いは、 一向に抱いていないらしい。

「諸先輩方は、 真実の探求に命を捧げられました。 諸先輩方の貴い犠牲は、 “ミステリー ・ サークル” の名と共に、 永遠に語り継がれて行くに違い有りません。 新世紀大学に纏わる怪異な伝説の中に生き続けるのです・・・」

種村は、 エスプレッソ ・ コーヒーの碗を口に運びながら、 無表情に聞き流していた。
ケンちゃんは、 既に退院していたが、 この場に姿を見せてはいない。
- オムレタス -2004-05-06 00:12:10
「意外と長引いたな。 九十九の入院・・・」
「精密検査の遣直しやら、 経過観察やらで、 結局一週間費やしちゃいましたよネ!」
「九十九の事だから、 脳波に異常でも認められたんじゃないのか?」

男子会員達は、 無責任な推論を下して、 口々に笑い合っが・・・。
種村には、 何故ケンちゃんの退院が遅れたのか、 大凡の察しが付いていた。

(恐らくは、 健一の頭部CT画像・・・)
 
診断に当たった専門医を驚愕させる、 何らかの “異常” を映し出していたに相違ない。
病院側は、 要 ・ 再精密検査の名目で、 一日伸ばしにケンちゃんを引き止め、 調査データの作成に勤しんでいたのであろう。

(無理からぬ事だ。 彼らとしても、 思い掛けず舞い込んで来た “好個の症例” を、 無下に手離せる筈が有るまい。 ・・・“テレパス” の脳の内部を覗き見る機会など、 易々と得られるものではないからな)


( 続く )



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