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オムレタス
-2003-07-27 12:47:55
第四章 涙のカノン v(^.^)
蛹化 (むし) の女
月光の白き林で 木の根掘れば蝉の蛹のいくつも出て来し ああ
それはあなたを思い過ぎて変わり果てた私の姿
月光も凍てつく森で 樹液すする私は虫の女
いつのまにかあなたが 私に気づくころ
飴色の胎もつ 虫と化した娘は
不思議な草に寄生されて 飴色の背中に悲しみの茎がのびる
月光の白き林で 木の根掘れば蝉の蛹のいくつも出て来し ああ
それはあなたを思い過ぎて変わり果てた私の姿
月光も凍てつく森で 樹液すする私は虫の女
(作詞:戸川 純 作曲:Pachelbel)
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オムレタス
-2003-07-27 12:50:48
未由希の、 ささやかなステージ ・ デヴューの場面に話を戻す。
天宮夫人の演奏による 『アヴェ ・ マリア』 (グノー編曲) が終了した後の事で、 来客達はその豊かな余韻に浸っていた。
未由希は、 客間の中央へ軽やかに進み出ると、 作曲家の前で、 小さな身体を二つに折って、 御辞儀をした。
スミレ色の大きなリボンが揺れた。
それから、 もう一度視線を作曲家の面に戻した。
物怖じしない、 好奇心に満ちた眼であった。
黒々と濡れた瞳。
・・・と見えたのは、 一瞬の錯覚。
実は、 その瞳は栗色である事に気付いた時、 未由希はもうピアノの方向へ身を翻していた。
ともあれ未由希の印象は、 作曲家に在りし日の美穂の姿を眼前にしているかのような倒錯を覚えさせたのである。
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オムレタス
-2003-07-27 14:13:06
「美穂が、 四十四年前の私との約束を未だに覚えていて、 戻って来たのかと思ったんだ。 そんな馬鹿な事が、 ある筈はないのにな。 ・・・年甲斐もなく取り乱してしまった」
松葉杖を握る作曲家の手に、 覚えず力が籠もった。
「いいえ、 あの御嬢さんは、 本当に美穂ちゃんの生まれ変わりなのかも知れませんよ」
「如何したのだね? 御前まで、 急に突飛な事を・・・」
「私には、 神様が御引合わせして下さったような気が致します。 今夜は、 特別な夜で御座いますから・・・」
作曲家の相好が、 ようやく崩れた。
唐突な調子で、 “聖夜の奇蹟” を説いた女史が、 何とも滑稽に感じられた。
幼少時に洗礼を受けている天宮夫妻と異なって、 女史は基督者ではない。
「・・・だとしたら、 今度は私の方が約束を果たさねば成るまいな!」
作曲家の表情には、 喜色が甦っていた。
「あの娘の為に、 曲をプレゼントする事にしよう。 あの娘が、 本格的なステージ ・ デヴューを迎える日の記念としてね。 十年後か、 十五年後になるか分からないが・・・」
女史もまた、 面を輝かせながら応じた。
「素敵な思い付きです事・・・。 将来が楽しみな御嬢さんですものね。 二人で、 末永く見守らせて頂きましょうよ」
リムジンは、 例年よりもイルミネーションの光の少ない、 聖夜の市街を走行していた。
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オムレタス
-2003-08-17 18:18:33
是が、 昭和63 (1988) 年12月24日夜の出来事である。
八雲老兄妹は、 すでに未由希の才能の開花を予感していたが、 それから略八年後、 幸福に包まれた天宮家を襲う恐ろしい悲劇は、 誰にも予測する事が出来なかったのである。
そして物語は、 平成15 (2003) 年2月の時点に進む。
場面は、 時ならぬ乱闘劇のトバッチリを受けて、 意識不明に陥ったケンちゃんが担ぎ込まれた救急指定病院である。
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オムレタス
-2003-08-17 18:19:56
バスケットの中で、 白い毛糸玉のように身体を丸めたリオンは、 安らかな寝息を立てて眠り込んでしまっている。
御使 (みつか) い歌いて 牧人 (まきびと) 集えば
愛しき嬰児 (みどりご) 静かに眠れ
今ぞ迎えん 我らの君をば
共に歌わん 我らの主をば〜〜♪
史織は、 右手の指でリズムを取りながら、 1フレーズを歌い終えると、 優しく微笑んで、 そっと蓋を閉じた。
それから、 少し不安気な表情になって周囲を見回した。
正規の診療時間を過ぎ、 閑散とした総合病院のロビーに、 スクール帽の少女が一人取り残されている情景は、 誰の眼にも奇異なものと映る。
史織は所在のない儘、 白々とした壁面を飾るマチスやドガの複製画の上に視線を移していると、 救急外来病棟から中田少年が引き返して来た。
中田少年は、 史織にホット ・ ココアのハンディ缶を差し出してから、 情況報告に入った。
「安心しろよ。 精密検査の結果じゃ、 何の異常も認められなかったってさ。 御巡りさんからの又聞きだけどナ」
「未だ、 意識は戻らないんでしょ?」
「心配要らないよ。 それも時間の問題だって。 何してんだ? 代金なんか良いから、 温かい中に飲めよ」
「それじゃ・・・いただくわね」
「これ飲んだら、 もう帰ろうぜ。 意識が戻ったとしても、 今夜は面会謝絶だよ。 ネコだって、 早く家に連れて帰ってやらないと可哀想じゃないか。 今日から新しい家族になるんだろ?」
「うん。 私も、 今そう思ってたの」
「どうしても御礼を云いたいんなら、 明日あらためて出直せば良い。 俺も付き合うからさ」
「ごめんね。 すっかり中田君に迷惑掛けちゃって・・・。 その代わり、 帰りのタクシー代は持つからね」
(ウワ! ここからタクシーに乗る気だ。 セレブの金銭感覚には負けるゥ・・・)
中田少年は、 少したじろいでから、 思い出したように付け加えた。
「御巡りさん同士で話し込んでるの、 チラッと聞いたんだけどさ。 あの大学生、 結構有名人らしいんだ。 何でも、 “十年前のあの事件” のたった一人の生存者なんだって・・・」
ココア缶を口元に運び掛けていた史織は、 一瞬手を止めた。
「何なの? “十年前のあの事件” って・・・」
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オムレタス
-2003-08-17 18:22:02
「サア、 知らないよ。 未だ俺達の生まれる前の事じゃんか。 ・・・だけど、 意外と大物なのかも知れないな、 あの大学生」
「あの人、 絶対悪い人なんかじゃないって、 私信じてる。 ほんの一瞬だったけど、 眼を見て分かったの。 今まで会った事のない、 ものすごく優しい、 淋しげな眼をしていた。 ・・・みゆき御姉ちゃんだって、 それを強く感じたと思うの」
「全く奇遇だよな。 姉妹で同じ人間と接点を持ってるなんてさ。 出会った時の状況も、 何だか似通ってるし・・・」
一週間前、 住宅街の路上で昏倒したケンちゃんを、 姉の未由希が救った経緯に就いて、 史織は中田少年の話で初めて知ったのである。
「みゆき御姉ちゃん、 何にも話さなかったもの。 あの日の御姉ちゃんは、 御夕食が済むと、 何時ものように御部屋に引き取って、 その後で 『主よ、 人の望みの喜びよ』 を演奏していた・・・」
「何だい? ソレ」
「バッハの 『カンタータ第147番』 の終曲に当たる部分よ。 もともとバロック音楽は、 御姉ちゃんのホーム ・ グラウンドなんだけど、 その中でも御得意のスコアなの。 同じバッハなら、 『平均率クラヴィーア曲集』 とか 『誓いのフーガ』 とかもね。 パッヘルベルの 『涙のカノン』 も良く弾いてる。 でも、 御姉ちゃんの演奏で一番圧巻なのは、 何と云っても・・・」
興奮し始めると止まらなくなる史織の口上に、 中田少年は悲鳴を上げた。
「何だよ? 俺の着いてけない話しないでくれよ!」
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オムレタス
-2003-08-17 20:47:11
史織とリオン、 中田少年は、 タクシーを呼寄せると、 ケンちゃんが加療中の救急指定病院を後にした。
史織は、 クラスメイトと二人で、 長距離をタクシーに揺られて帰ると云う体験が嬉しいらしく、 幾分緊張気味の中田少年と対照的に、 無心に瞳を輝かせていた。
「でも、 斎藤の御姉さんって・・・ホントに素晴らしい人だったんだな。 俺達の年齢の時には、 もう天才少女ピアニストって呼ばれてたんだろう? 事故にさえ遭わなかったら、 今頃は世界の檜舞台で活躍していたに違いないって云うじゃないか」
「・・・中田君、調べたのね?」
「ネット検索してたら、 偶然見つけたんだ。 赤の他人なら見過ごしていたと思う。 だけど、 オレには斎藤の御姉さんに間違いないって分かった。 ・・・悪かったかな?」
「ううん、 全然・・・。 大歓迎よ! みゆき御姉ちゃんの事、 一人でも多くに知ってもらえたら、 その分嬉しいもの・・・」
「御姉さんも大変だったんだね。 随分と・・・」
中田少年は、 珍しく厳粛な口調で語を継いだ。
「何で、 あの優しい人が、 あんな不幸な目に遭わなけりゃならないのか、 不思議で堪らないよ」
心なしか、 史織の表情も少し沈んでいるように見えた。
「小学校に入る前だった。 みゆき御姉ちゃんとは、 ほんとうは従姉妹同士なんだって聞かされたのは・・・。 こんな事云ったら、 中田君に馬鹿にされるかも知れないけど、 御姉ちゃんの眼が見えない事を知ったのも、 その時だったの。 みゆき御姉ちゃんって、 物凄く勘が良いんだもの。 ずっと眼が見えると思い続けてたんだ。 滅多に外出しないから、 身体が弱いのかな?とは感じてたけど」
「分かるよ・・・。 人と話す時も、 声から相手の位置を推し量って、 一人一人に必ず目線を合わせて応対するんだもんね。 とても眼が不自由だなんて思えないよ」
史織は、 前方に視線を向けた儘、 自分自身に云い聞かせるように呟いた。
「・・・でもね。 みゆき御姉ちゃんは、 何時までも史織のほんとうの御姉ちゃんだと思ってる。 みゆき御姉ちゃんだって、 史織の事をたった一人の妹だと思ってくれてるんだもの」
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オムレタス
-2003-08-17 20:48:35
両親を喪った未由希が、 斎藤家の養女として迎えられたのは、 彼女が満十二歳、 史織が満三歳の時である。
史織が、 未由希を姉として慕い始める様になったのは、 何時頃からであろうか?
裕福な家庭にのみ許される事であるが・・・。
斎藤家に在っては、 退院後も相応の機能回復訓練が必要と見られていた未由希の為に、 医師、 看護婦、 理学療養士、 介護士、 臨床心理士等の医療 ・ 介護スタッフが常駐していて、 綿密なプランに基づくケアが実施されていた。
更に、 家庭教師や家政婦も含めて、 未由希の身辺から人の気配が絶える事はなく、 史織との交流の機会も中々訪れなかった。
未由希が、 漸く一人でピアノと向い合う時間を持てるようになったのは、 忌わしい事故から一年が経過しようとする頃であった。
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オムレタス
-2003-08-17 23:54:26
「ねえ、 みゆき御姉ちゃん。 史織が、 初めて御姉ちゃんの御部屋に遊びに来た日の事憶えてる?」
小学校二年が終了した春休み・・・。
史織は、 未由希からピアノの個人レッスンを受ける機会に恵まれたが、 その合間に何気なく訊ねてみた事がある。
「ええ、 とても良く憶えているわよ。 史織ちゃん」
スノウ ・ ホワイトのセーターの上に、 豊かな黒髪を波打たせた未由希は、 表情を輝かせて答えた。
胸にクロス・ペンダントを下げている以外、 装身具は一切付けていない。
「あれは、 御姉ちゃんが退院して来た翌年の春だったわ。 御姉ちゃんが、 一人でピアノを弾いているとね。 御部屋の入り口の所で、 誰かがそっと見ているのに気付いたの。 すぐに史織ちゃんだなと思ったわ。 だから、 名前を呼んでみたの。 そうしたら史織ちゃん、 吃驚して逃げちゃったじゃない? それが最初だったの」
「史織、 全然憶えてない・・・」
「まだ四歳位だったものね」
「史織だって、 どうして分かったの?」
「だって・・・。 御家の中で足音を立てないで歩けるのは、 史織ちゃん一人しかいないもの」
「でも、 足音がしないんなら、 どうして史織がいるのが分かるの?」
「自然に感じるの。 今でもそうだけど、 史織ちゃんが傍にいる時って、とっても暖かいものを感じさせてくれるから・・・」
「史織から、 強力な遠赤外線か何か放射されてるわけ?」
「うふふ・・・。 そうかも知れないわね」
未由希は、 史織の肩に添えていた右手に少し力を込めると、 その身体をそっと胸元に抱え込んだ。
三編みのお下げが、 微かに揺れた。
「御姉ちゃんも、 何時も暖かいね」
「それからも、 同じ事が二、 三度あって・・・。 一度捉まえてみようと思っていたの。 それで御姉ちゃん、 一計を案じてみたの」
「ひどーい。 史織・・・まるで悪戯な猫みたいじゃないの?」
「御免なさいね。 だって史織ちゃん・・・すぐ逃げちゃうんだもの。 御姉ちゃん、 どうしても御話がしてみたかったの」
未由希は、 史織の頭部にもう一方の手を添えると、 優しく撫ぜ始めた。
「あの頃の御姉ちゃんね・・・。 亡くしたものを取り戻そうとして、 夢中になっていたの。 音楽が愉しいものだと云う事も、 何時か忘れかけていたの。 そんな時だったのよ、 史織ちゃんが来てくれたのは・・・」
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オムレタス
-2003-08-18 00:22:28
その日・・・。
未由希が、 またも史織の熱心な視線を意識したのは、 バッハの 『管弦楽組曲第2番 ポロネーズ』 を弾き終えた時であった。
(今日こそは・・・!)
意を決した未由希は、 ルロイ ・ アンダーソンの 『ワルツィング ・ キャット』 を弾き始めた。
案の定、 キャッチーなメロディに惹かれたらしく、 そっとカーペットを踏んで近付いて来る気配が伝わって来た。
手を伸ばせば掴まえられそうな位置から、 一途な視線が注がれているのが感じられた。
未由希は演奏を続けながら、 話し掛けてみた。
「史織ちゃん・・・でしょ?」
相変わらず返事はない。
しかし、 逃げようとする素振りも見られなかった。
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オムレタス
-2003-08-18 01:17:40
「史織ちゃんも、 ピアノを弾くの?」
「ううん・・・。 まだ習い始めてないの」
「それじゃ、 此方へ来て、 御姉さんと一緒に弾いてみない?」
「御姉ちゃまのピアノに触っちゃいけないって・・・ママから云われてるの」
未由希は演奏の手を止めると、 あらためて史織に微笑みかけた。
「大丈夫よ。 御母様には私から御話して上げるから・・・。 此方へいらっしゃいな」
差し招くと、 存外簡単に寄って来た。
未由希は、 席を史織に譲って、 その傍らに立った。
史織の肩へ両手を添えながら、
(やっと捉まえた・・・)
と思っていた。
四年前になる。
叔母夫婦 (=現在の養父母) が、 生まれて間もない史織を伴って、 御年始の挨拶に天宮家を訪れたのは・・・。
その時、 ほんの少しの間、 史織を抱かせてもらった。
自分にも、 こんな可愛い妹が欲しいと、 痛切に願った事を想い出していた。
運命の試練は、 自分から両親を奪い、 視力を奪ったが、 一つの夢は叶えてくれたのだと思った。
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オムレタス
-2003-09-30 05:50:34
ケンちゃんの意識が回復したのは、 史織と中田少年が帰路に就いてから一時間後の事であった。
担当医の問診を受けた後、 待機していた警官の事情聴取に応じた。
史織達の事を知ったのは、 その際である。
「小学校三年位の女の子がね。 どうしても貴方に会って御礼を述べたいと、 同級生らしい男の子と一緒にロビーで待っていたんです。 余り遅くなるといけないので、 二人とも帰しましたが・・・」
「僕に・・・御礼を?」
「ええ。 あの女の子の連れていた子猫を救けようとして、 貴方は大変な災難に遭ってしまわれた。 ・・・と云う事で、 貴方の容態を非常に心配して、 駅から着いて来たんですよ。 何とも健気な御嬢さんじゃありませんか?」
「そうでしたか・・・」
「明日、 あらためて御見舞いに上がると云っていましたよ。 もし差し支えなければ、 ほんの少しの間で結構ですから、 面会に応じて頂けないでしょうかね? 貴方の元気な姿を見たら、 定めし安心する事と思いますので・・・」
「良く分かりました。 御安い事です。 ・・・ただ、 事実は一寸違います。 僕が車内の争いに巻き込まれたのは、 僕自身の不注意によるものなんです」
ケンちゃんとしては、 子猫を救う心算はなかったのである。
あの少女の無謀な行動を制止しようとしたに過ぎない。
少女から感謝されるのは筋違いだと思った。
・・・そうだ。
他人から感謝されるなんて、 全く以って筋違いだ。
自分は如何なる意味に於いても、 感謝や賞賛を受けるに値する人間ではないのだ。
(・・・自分ほど罪深い人間はいない)
愛する者を・・・真に守るべき者を、 守ろうとしなかった。
その責めからは、 どんなに時が経っても逃れる事は出来ない。
生きている限り、 ずっと負い続けて行かなければならないのだ。
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オムレタス
-2003-09-30 05:55:55
警官は、 終始ケンちゃんに好意的な姿勢で、 聴取を進めた。
察するに、 ケンちゃんの経歴について知悉している様子であったが、 殊更 “十年前の事件” に触れようとはしなかった。
ただ、 十代に入ってからのケンちゃんの “表彰歴” を取り上げ、 最大級の賛辞を以って賞揚した。
・・・ケンちゃんは過去数年の間に、 人命救助の功績によって、 消防署から二回、 警察署から一回、 感謝状を贈呈されているのです。 v(^.^)
「偶々・・・そう云う場面に遭遇してしまう事が多いんです。 如何云う訳なのか・・・」
ケンちゃんは、 自嘲気味に呟いた。
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オムレタス
-2003-09-30 05:57:44
感じるのだ。 シグナルを・・・。
懸命に救いを求めるシグナルを、 自然に感知してしまうのだ。
それは、 時間と場所を選ばない。
海や山などの行楽地に出向いても、 市街地の舗道を歩いていても、 或いは公園のベンチシートに凭れていても・・・。
突然発せられる心の叫びを、 鮮明に聞いてしまうのである。
しかし、 その事を警官に説明した処で、 信じては貰えないと思ったから、 言葉を濁したのである。
「いや、 一般市民の方々が不測の事態に直面した際、 即座に冷静で的確な行動を取ると云うのは、 非常に困難な事なんです。 平常時から心の準備を万全にしていないと、 容易に出来るものではありません」
警官の方では、 ケンちゃんの謙遜と受け取ったらしく、 尚も賞揚するを止めない。
「貴方の場合、 日頃から強固な責任感と倫理観が涵養されていて、 それが土壇場での見事な勇気と行動力として現われたものに違いありません。 その年齢で、 御自身を其処まで高められて、 尊い人命の救助に貢献を重ねられているのは、 本当に素晴らしい事です。 私共としても、 敬服するばかりですよ」
「・・・そうでしょうか?」
ケンちゃんは、 次第に苛立ちに似た感情を覚え始めていた。
「僕のした事なんか、 多寡が知れています。 必死に救いを求める声を耳にしながら、 救えなかった場合の方が多いんですから。 僕が、 あの人達の発する “信号” を感じ取った時点で、 躊躇いなく行動を起こしていたら・・・。 或いはもっと感覚を研ぎ澄ませて、 それらの信号に十分な注意を払っていたなら・・・。 遥かに多くの生命を救えた筈なんです!」
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オムレタス
-2003-10-04 07:40:40
「自分一個の “安心立命” も得られぬ者が、 全人類の苦悩を背負って立とうとでも云うのか? 万人の魂の叫びに膚接しながら生きて行く覚悟でいるのか?」
サークル仲間の種村が、 是の場に居合わせたなら、 冷ややかに云い放ったに違いない。
ケンちゃんには、 その哄笑まで聞こえるようであった。
「理性とは、 何のためにある。 雑多な外界の刺激の中から、 自己に有用な情報のみを選別し、 一切の不要物は取り捨てる作業に用いる機能だろう? 他者の発する悲鳴 ・ 叫喚に耳を傾ける間が有るなら、 真剣に己の身を案じたら如何なんだ? 人生に明確な指針も、 目的意識も持とうとしないから、 余計なものが聞こえて来るんだ」
種村は、 数少ないケンちゃんの “理解者” とも云えたが、 二人の間には決定的な価値観の相違があった。
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オムレタス
-2003-10-05 23:56:11
「しかし、 それは・・・決して貴方一人の責任ではありませんよ」
警官は、 ケンちゃんの視線を真っ直ぐ受け止めながら、 穏やかに言葉を返した。
・・・ケンちゃんは、 他人と会話をする際、 決して相手の眼から視線を逸らす事はないのです。 v(^.^)
「ただ一人の人間に、 世の中で起きている不幸や悲劇の全てに立ち会うなんて、 それは無理な話です。 市民社会の一員として、 果たさなければならない義務や責任は少なくはない。 それに就いて貴方が非常に強い自覚を御持ちなのは、 本当に敬服に値する事です。 しかし貴方は、 個人の対応し得る限度を、 遥かに超えるノルマを、 自らに課そうとしています」
警官・・・渡部巡査長も又、 “理性の言葉” を以ってケンちゃんを諭した。
「それは本来、 私共も含めて・・・社会全体で取り組んで行かなければならない問題なんです。 貴方は、 何もかも御自分の責任の様に云われますが、 貴方としては真摯に・・・誠実に、 尽くせるだけの力を尽くして来られたんですから、 何ら御自分の良心に恥じる処は有りません。 むしろ、 その事を誇りに出来る筈なんですよ」
その言葉には・・・しかし、 市民生活の安全と社会秩序の維持のため、 日夜身を挺して働いている人間の、 誠意と熱情が漲っていた。
「貴方は、 未だ御若い上に、 極めて清廉で誠実な方ですから、 物事を必要以上に深刻に捉えて、 御自分を追い詰めてしまわれるのでしょう。 しかし、 そんなにも絶えず張り詰めていたのでは、 身も心も持ちはしませんよ」
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オムレタス
-2003-10-05 23:59:11
「巡査長の云う通りよ。 九十九 (つくも) 君」
不意に、 張りのある女性の声が響いた。
二人が視線を転じると、 フォーマル ・ スーツに身を包んだ二十代半ばと思しい女性が、 病室の入り口に立っていた。
「貴方は、 何時だって生真面目過ぎるもの。 もう少し柔軟に物事を考えないと・・・」
「佐治田・・・さん!」
ケンちゃんは、 思わぬ訪問者の姿に、 寝台から身を起こし掛けていた。
渡部巡査長は、 椅子から立ち上がると、 挙手の敬礼を以って女性を迎えた。
女性・・・警視庁捜査第一課 ・ 佐治田慧子警部補は、 上体を十五度傾けて答礼を返すと、 にこやかに微笑んだ。
「事情聴取は、 もう御済になられたんでしょう? 渡部巡査長。 もし宜しい様でしたら、 私もこの青年から伺いたい事が、 少々あるんですけれど・・・」
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オムレタス
-2003-10-12 10:17:05
「・・・相変わらずね。 九十九 (つくも) 君。 鉄道警察隊から連絡を受けた時は、 ちょっと驚いたけど、 大事に至らなくて何よりだったわ」
佐治田慧子は、 携えて来た果物籠をサイド ・ テーブルの上に置いて、 寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。
退室した渡部巡査長と入れ替わる格好であった。
「貴方って青年も、 不思議と事件に巻き込まれるケースが多いわね。 外見から受ける印象は、 ストイックな文学青年風・・・。 品行方正で、 他人との争い事は好まない。 ドストエフスキーの様な破滅型とも、 アルチュール ・ ランボーの様な放蕩型とも、 一線を画しているんだけど・・・。 如何して、 波乱を呼び寄せてしまうのかしらね?」
「僕の方で聞きたいですよ。 今回に限っては “波乱” に介入する意思なんて、 毛頭無かったんですから・・・」
「・・・でも、 静観するに忍びない、 何らかの事情が存在したのね。 結局、 何時もの貴方らしく行動せざるを得なくなったんでしょ。 そんな処じゃないの?」
「御想像に任せます」
「貴方は、 そう云う青年だもの。 普段は周囲に対して無関心を装っているけれど、 他人の窮境を目の前にすると、 放っては置けなくなる。 本当は、 人を思いやる気持ちを、 あふれる程心の内に持っていながら、 それを上手に表現する事が出来ないので、 苛立のみが募っている」
「プロファイリングするのは、 止して下さい」
ケンちゃんは、 やや改まった調子で語を継いだ。
「本日は、 警視庁の敏腕警部補が、 僕に何の御用ですか? 御見舞いだけが目的じゃないでしょう」
「無理に、 他人行儀にならなくて良いの。 ・・・貴方の御姉様と私とは、 竹馬の友だったんだから。 九十九君に贈る記念品、 本人の希望を確かめた上で決めようと思って・・・」
「記念品って・・・何です?」
「貴方が、 晴れて成人を迎える日の記念品よ。 来月でしょ。 貴方の満二十歳の誕生日。 ・・・何なの、 その表情は? ひょっとして “俺の誕生日など呪われるが良い” なんて思ってるんじゃない?」
・・・ケンちゃんの誕生日は、 三月十三日なのです。 名前が “九十九” だから、 それに因んで九月十九日と云う訳では・・・有りません。 v(^.^)
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オムレタス
-2003-10-12 10:19:52
「貴方の事だから、 きっと成人式にも出席しなかったんでしょう?」
「今時、 胸を時めかせて成人式を待ち望む若者なんて、 却って希少種ですよ。 僕が特別な訳じゃない。 喜び勇んで式場に繰り出して行くのは、 “破戒” の儀式と勘違いしている連中位のものです」
「やっと、 九十九君らしいジョークが出たじゃないの!」
(別に、 ジョークの心算じゃ・・・)
「さア、 プレゼントは何が良いのかな? 好きな物を云って御覧なさい」
「佐治田さん御愛用の・・・ノート ・ パソコンの御古でも頂戴出来るなら、 無上の光栄です」
「そんな物じゃなくて、 他に何か無いの?」
「如何してです? パソコンの御古を人に譲ったら、 守秘義務に抵触する懸念でも有るんですか?」
「そう云う問題じゃないの。 貴方の人生の門出なんだから、 遠慮する必要は全然ないのよ。 もう少し高級な物を、 御強請して御覧なさいな」
「現在の僕にとって、 ノート ・ パソコンは超高級品ですよ」
「・・・じゃ、 最新の機種を選んで上げる事にするわ」
慧子は微笑を浮かべると、 あらためて姉の様な視線をケンちゃんの面に注いだ。
「貴方の身元保証人としての役目も、 これで一段落するわ。 九十九君もそろそろ、 猶予期間 (モラトリウム) は卒業する心構えを持たないとね」
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オムレタス
-2003-10-12 10:22:42
「佐治田さんには、 本当に御世話の掛け通しでした。 問題児が手離れして、 さぞかし肩の荷が降りた事でしょう?」
「如何して、 そんな事を云うの? 貴方は、 ずっと品行方正な青年だったじゃない」
「佐治田さんは、 御自分の職務に専念なさって下さい。 僕の宿命は、 僕自身が負い続けて行きますから・・・」
「途端に、 一人前の口を聞くじゃないの」
「僕の事で、 これ以上の負荷を御掛けしたくはありません」
「貴方の事は、 家族同然に思っているのよ。 少しも負荷とは感じていないわ」
「僕と深く関わると、 何時か累が及んでしまう様な気がします。 僕には、 それが怖い」
「身の危険を恐れていて、 警察職務の遂行に当る事が出来ますか?」
「そうじゃない。 佐治田さんを、 僕の姉の様な目に遭わせたくはないんです」
「御姉様を・・・。 “みゆき” の事を、 未だ気に病んでいるの?」
「そうです。 十年前の夏、 僕の身代わりになって死んでいった姉・・・。 僕が守ろうとして、 守り得なかった姉の・・・ “みゆき” の事は、 一日だって意識から去りはしません」
「何時になったら解ってくれるの? ・・・みゆきの死は、 貴方の責任なんかじゃないわ!」
「僕が、 姉の代わりに死んでいれば良かったんです!」
ケンちゃんの眼は、 何時か憑かれた様な光を帯び始めていた。
「十年前のあの日・・・。 僕は、 武器を手にしていながら、 何もする事が出来ませんでした。 ただ震え慄いているだけでした。 等身大の空間に身を潜め、 じっと息を殺して、 殺人者の立ち去るのを待っていました。 一秒一秒が、 数分にも感じられた。 ・・・姉の危急を察して、 アイスピックを翳して躍り出たのは、 何もかも手遅れになった後の事だったんです!」
◇ ◇
窓から差し込む白い月の光が、 照明を落とした室内の情景を、 淡く夢幻的に演出している。
幻想空間を、 流麗なピアノの調べが、 月光と調和しながら流れ去って行く。
パッヘルベルの 『涙のカノン』 であった。
未由希は、 そっとカーペットを踏んで近付く来訪者の気配を、 意識の端に捉えていた。
演奏を続けながら、 話し掛けてみる。
「史織ちゃん・・・でしょ?」
やや有って、 予期していた声が応答する。
「ねえ、 みゆき御姉ちゃん・・・」
「なあに?」
「さっきね。 ママの前では、 黙っていたんだけど・・・」
「解っているわ。 御姉ちゃんに相談したい事が有ったんでしょう?」
帰宅した史織の報告は、 斎藤家に浅からぬ衝撃をもたらしていた。
両親は直ちに、 史織の遭遇した列車内の乱闘事件に就いて、 警察に事実関係の確認を行った。
その結果、 明日学校が引けてから、 母親が史織に付き添って、 入院中のケンちゃんを見舞いに行く事となったのである。
処で、 母親への報告の中で、 能弁な史織が珍しく云い澱んでいる部分が有るのを、 同席した未由希は明敏に感じ取っていた。
「待っていたのよ。 後で、 必ず史織ちゃんが訪ねて来ると思って・・・」
「みゆき御姉ちゃんって・・・。 どうして、 何時も史織の考えている事が解るの?」
「自然に感じるの。 史織ちゃんが傍にいるだけで・・・」
未由希は演奏の手を止めると、 あらためて史織に微笑みかけた。
「じゃあ、 史織の御話の内容・・・聞かないでも、 もう解ってるの?」
「そこまでは、 無理よ。 それに第一、 史織ちゃんから御話を聞く愉しみがなくなっちゃうでしょ?」
「ふーん。 そう云えば、 そうだもんね」
次の瞬間、 史織は息を弾ませて、 未由希の傍らへ駆け寄っていた。
「ねえ、 みゆき御姉ちゃんにだけ知らせたい事があるの。 御姉ちゃんのきっと吃驚するような事・・・」
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