- 青木誠一
-2004-04-16 19:47:59 (ホームページ)
やっと、出番が来た。 親の事業を受け継いだ邦子の奴が、念願の映画づくりに進出したいから、手を貸せという。 邦子は、高校時代からの親友。詰襟の服を着て撮ったアマチュア映画の創作活動を通じて結ばれた仲だ。その頃、彼女のほうはブレザーの制服に身を包んでいたけれども。
- 青木誠一 -2004-04-16 19:49:01
有能なアドバイザーなど映画界にゴマンといるわけだから、こんな関係でなければ自分ごときが呼ばれることはなかっただろう。事実、邦子はぼく以外にも、及びもしないほどの実績を積んだその道のクロウトたちに助力を仰いでいたのだ。
- 青木誠一 -2004-04-16 19:49:38
そう、実績。それも堂々たる実績だ。 どんな実績かって? もちろん、日本映画界を壊滅させてしまった実績である。 ぼくは邦子に、これら実績者たちのありがたい助言を断固はねのけさせ、彼女と共に一からやり直さなければならないだろう。
- 青木誠一 -2004-04-16 19:50:33
建物の前に乗り付けたぼくは、上体をそり返らせて、仰ぎ見た。 どんな構築物よりも高みにある東京の空は、やがて、さらに高い場所からの訪問者がそこを突き抜け、地上へ舞い降りることを人々に隠したまま、永遠の平安が続くのを約束するように青く澄みきって輝いていた。 もちろん、空を見たかったわけではない。これから会う女性に思いをめぐらせたのだ。
- 青木誠一 -2004-04-16 19:51:21
その娘は、わが頭上にそびえる建物の百七階にいるはずだ。 そう。東京の電波塔をもしのいだ日本で最高の建築物。地上百八階、四百メートルもの威容を誇る、三ツ橋ビルの最上部。 邦子は、百七階の空間全体を、社長室兼東京での住まいとして利用している。
- 青木誠一 -2004-04-16 19:52:02
案内された部屋は、オフィスの一部というより、ホテルのスイートルームのようだった。 若い美貌の社長は、デスクの前ではなく豪華な応接用の家具の間に身をおいて、ぼくを迎えた。 洗練されたデザインの純白のイヴニング・ドレスに身を包み、束ねた髪に宝石を飾っている。 「ワタル、お金ができたわよ」 ぼくの顔を見るなり、邦子は言った。あいさつよりも先に出た言葉だった。
- 青木誠一 -2004-04-16 19:52:37
「そう? 足りないものはなくなったわけだ」 ぼくもあいさつはしない。 黙って、彼女の渡したアペタイザーを受け取った。グラスの中では、カクテルに浮かんだ何万年も前の南極の氷がはじけ、パチパチと個性的な泡を発散させている。 「たいした出世ぶりじゃないか。いつのまにか、日本経済界のトップにいるなんて。今度は映画女優にでもなるつもりかい?」 グラスとグラスを合わせた。
- 青木誠一 -2004-04-16 19:53:13
たしかに邦子は、知性に恵まれたばかりか、女優になりすませるほどの美貌の持ち主だ。 全体に小作りだが、しなやかな肢体とキリッとした愛すべき顔立ちをしている。 だが、演じることにはさほど関心を示さない娘だった。これは高校時代から一貫している。ぼくら男の部員どもは、彼女にヒロインを演じさせようとしたが、本人は演出かプロデューサーの仕事をやりたがったものだ。この期に及んでも、出演料を稼ぐ気は毛頭ないらしい。
- 青木誠一 -2004-04-16 19:53:53
「で、ぼくの役どころは?」 もちろん、映画の中の役どころではない。 役者としての自分の才能にはとっくに見切りを付けている。 「プライベートな意味での製作顧問ってところね。実際は、別の役職で呼ばれることになるでしょうけど」 「過ぎた光栄だ、八ミリの映画祭で優勝しただけの小者には」 ぼくは、肩から吊り下げたちっぽけな機材ケースを揺すってみせた。 なにが起こるかわからない世の中だ。常に一台持ち歩くことにしている。 「あなたは、その八ミリ・ビデオをつかんで、地球を何周したのかしら?」 「忘れたよ。世界はあんまり広すぎて」
- 青木誠一 -2004-04-16 19:54:47
オードブルが運ばれてきた。 「とにかく、ワタルには徹底的に意見を出してもらう」 「文句ばかりでも?」 「わたしに平気で文句を言えるのはあなただけじゃないの」 いまとなっては、そうだろう。 三ツ橋コンツェルンの若き美貌の総帥の機嫌を損ねようとする勇気を持つのは難しい。 ところが、ぼくは彼女の弱点を知っている。善良な人間だという弱点をだ。
( 続く )
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