「永井文豪の平和な生活」
――「パジャマ大使」より――





 眼を醒ますと、ダイニングのほうから、肉や野菜に種々のスパイスが混じり合った豊かな香りが漂ってきた。
 そうかあ。下宿男児の奴め、早起きついでに朝食の支度を代わってくれているのだな。ウムウム、なかなかに奉仕的な国民軍の予備役だわい、とウトウトした意識の中で感謝の念を抱く。
 しかし、そのまま寝てはいられない。今日は、普通の日曜日とは違うからである。
 そのことに気づくと、両親がこの自分を受胎させた、まさに同じ寝台で頑丈なスプリングをかすかにきしませて、ガバッと跳ね起きたのだった。

 階段を降りて調理場をのぞいてみると案の定、下宿男児が、カレーづくりに腕をふるっている。
 ステイーブン・セガールばりのごっつい巨体といかつい顔立ちをした三十男が、いつもはこの自分が使う、姉が着古したピンクの前掛けを着けて俎板に向かい、わりと器用な手つきで、固ゆで卵をみじん切りするのに余念がない様子だ(☆ 本名、八原男児)。

 あいさつ代わりに、聞くまでもないことを聞く。
「なにをしている」
「見れば、わかろう。カレーを調理しておるのだ」
「出来たら、俺も食うぞ」
「食え、食え」

 下宿男児との意思疎通はいつも、こんな程度の言葉のやりとりで用が足りる。
 この男の言葉遣いときたら、およそ一般人の使う日本語からは遠ざかったものだ。
 実を言えば、わが口ぶりも普通の日本人とはかけ離れている。
 したがって、生活に最小限度の言葉だけ交わし合えば済む相手が家の中にいると、こちらまでが日本語表現を豊かにしておく必要を感じぬため、思わず知らず、この男に口振りを合わせた結果が、ロボット同士の会話のごときボキャブラリーの貧困化を招き寄せてしまうことになったのだ。

「支度は出来たな、みんなを呼ぶぞ」
「呼んでこい、呼んでこい」
 下りてきたばかりの階段を駆けのぼり、二階にとって返した。
「ようし。まず、下宿男の奴を起こそう」
 下宿男というのは、そのあだ名の通り、大学生の頃から永井家に下宿する会社員である。
 この男の本名など忘れてしまった。親から立派な姓名を譲り受けてはいるのだが、それがあまりにも立派すぎるシロモノなため、実物を見ながらではだれも使うことができず、いつのまにやらみんな、「下宿男」とだけ呼んで馬鹿に、いやいや、親しむようになったという次第だ(☆ 「下宿男」の本名はなんと、「星河麗児(ほしかわ・れいじ)」)。

 その下宿男の部屋の前で立ち止まり、ドアを、ドンドンドン! と、こっぴどくたたき、怒鳴りつける。
「起きろ! こら、下宿男! 朝飯だぞ!」
 しばらくあってドアが開くと、寝不足で両眼を充血させた、ボサボサ頭の下宿男がさえない顔を出す。小太りした、出世しそうもない男だ。
「やかましいぞ、下宿屋」
 下宿男は、本名を呼んでもらえない報復に、この屋敷の管理人であると同時に所有者たるわが永井文豪に向かって、「下宿屋」と呼びかけるのだ。
「階下へ行け。男児のこしらえたカレーライスが、おまえを待ち受けている」
「グエッ! 朝から、カレーだと?」
 下宿男は、露骨にいやそうな顔をした。
 無理もない。昨夜二時過ぎまで会社の仲間と飲み歩いた報いの二日酔いに悩まされての起きぬけでは、食欲などわくはずがない。だが、下宿人が食おうが食うまいが、永井家では、食事の時間というものは定められた時刻に休みなくめぐってくる。
「家賃のほかに食事代払ってるんだから、もっとマシなもの食わせろよな」
「マシな食堂で、カレーとサラダにコーヒーが付いて、いくらになると思う?」
 実際、この下宿男は、腹が減ってるときには平気で、カレー三杯たいらげるのだ。
「下宿屋。俺が一食抜いたら、いくら浮くんだ?」
「おまえの食わない分が、残飯になって捨てられるだけさ」
 下宿男は考えこんでいる。カレーなんか食いたくないが食費は出しているから、せめてサラダとかコーヒーでも口に入れねばという意地ましい思いにとりつかれたらしい。それでもなお、ダイニングまで下りていくのは億劫な様子でいる。
「ルーム・サービスはないのか?」
 冗談で言ったとしたら天晴れなものだが、この下宿男にかぎって、ぬけぬけと本気のセリフを口にするから始末の悪いこと。
「ここをどこだと思っている。ウォルドーフ・アストリアじゃないんだ、俺の家だぞ」
「そうかい。道理で、真昼間っから廊下をパジャマで歩きまわる、変な野郎がいるはずだ」
 あ。こいつ、皮肉言いやがった。あまつさえ下宿男の奴は、起きぬけのパジャマ姿のまま階下へ下りていこうとするので、支配人の自分は職務上の義務として、それを押しとどめた。
「こら! ちゃんと着替えてからにしろ」
「ひとの服装が言えた義理か。てめえは、どうなんだよ」
「知ってるだろ? これは部屋着として着ている、室内用のパジャマだ」
 着ている青いパジャマの胸元を自慢げに引っ張り、見栄を切ってみせた。
「そんなの、屁理屈だろうが」
 屁理屈ではない。パジャマはちゃんと、六着持っているんだ。就寝用、室内用、そして作業用と三つの用途に洗濯時の代着も考えて、それぞれ二着ずつ。
 人体にとってパジャマぐらい適した服装はないというのが、四分の一世紀以上、寝たり起きたりするうちに行き着いた結論なのである。
 ネクタイも、ベルトも、革靴も、Yシャツやジーンズでさえも、窮屈な衣服による身体への支配など、自分には到底、受け入れられるものではなかった。
「くやしかったら、おまえもあと一着、パジャマを買って部屋着にするんだ、下宿男」
「パジャマなんぞ買う金あったら、ビデオやエロ本を揃えるわい」
「(だったら、背広にネクタイで下りてこい)」
 かくして、もともと不愉快な朝の気分をますます害された下宿男は、去りゆく家主の背中へと、目一杯の罵声を浴びせかけるのだった。
「やい、下宿屋! 低学歴者! 万年マスかき! どチンコ野郎!」
 下品な奴め。


 それから、下宿男の隣りに住む子供の部屋の前に立つ。
 ドアを軽く、三回ノックする。
「お〜い、下宿童子〜。朝ゴハンの時間だぞーーっ」
 だが下宿童子は、返事をしなかった。
 もう一度、コンコンコンをくり返した。
「お〜い、悪太郎〜」
 やはり、なんの応答もない。
 意を決して、ドカン! ドカン! ドカン! と強烈なキックを、立て続けにお見舞いしてやった。
 だが結局、部屋の中は鎮まり返ったままである。少しだけ、不安を感じた。
「死んだのかな?」
 合い鍵でドアを開け、部屋の中をのぞいてみる。
 やはり、そうだった。死んでいたのだった。
 窓際に縛り付けた洗濯ロープで首を巻きつけた小学の児童が、窓から差しこむまばゆい陽光に照らされたまま、白目をむいた遺骸をさらしている。
 なんというめでやかで、心なごむ風景であろうか。
「しょーがないな。こんな朝っぱらから」
 急ぐのだ。まだ生きているかもしれぬ。
 ツカツカツカと、ぶら下がる自殺者のそばへ早足で歩み寄ると、だらんと垂れた自殺者の両足をつかんだ。
 ようし。この両足を引っ張り、さらなる重量を加えることでトドメの行為となし、確実に死なせてやろう。
 自分は生来、残虐な人間ではない。これは、死を望む子供がこのうえ、し損じでもしては不憫だし、一命を取り留めたとて、本人のためにも社会のためにもならぬであろうことを憂いての本心からの善意がもたらす行動だ。
 息絶えよ、悪童!
「ギゲッ!」
 おおっ! それまで安らかな死に顔で白目をむいていた子供は、突如、濁った絶叫とともに息を吹き返し、バタバタバタと、たいそう苦しげな様子で身を激しく暴れさせはじめたではないか。
「ギゲ、ギゲ! グガ、グガ!」
 目前の光景に目を見張りながらも、しかし両足を引っ張るのだけはやめぬままにしていると、とうとう苦しみに耐え得なくなった子供は自分から、縛り付けていた洗濯ロープを窓枠からはずし、身を解き放とうとしたのである。だからといって彼が、床に着地できたわけではない。
 こちらがなおも相手の両足を水平につかみ放さずにいたからで、悪太郎めの上体は、空気を切って大きな弧を描くと、頭から真逆様となって床に叩きつけられてしまったのだ。
 ボゴッ!
「グガッ!」
 硬い床の上に落下した子供の頭が小気味のよい激突音を轟かせたところでようやく、抱えていた両足を放り出してやったので、悪童はさらに、倒立を崩されたような、ブザマな格好でひっくり返るという図をさらすこととなった。

 ほくそ笑む。
 やはり、そうだったか。これほど巧妙に自殺の現場を偽装したのは、自分が死んだと思わせ、発見した家主にぬか喜びさせるためだったのか。

 悪童がすばやく身を立ち直らせるより早く、頭に浮かぶかぎりの罵声を浴びせかけてやった。
「この糞ガキ! この悪ガキ! 死にぞこないの腐れガキ!」

 本名が良太郎。だが、みんなからは悪太郎と呼ばれる人騒がせな小学生は、気が向いたそばからだれかの前で自殺の真似事をしてみせ、罪なき人々が驚愕し狼狽するのを死んだ振りをしたまま眺めて悦に入るという、恐るべき性根の持ち主として生まれついた呪われし小児だ。

 悪太郎は、錯乱した言葉をわめき立てた。
「よくも、本気で殺そうとしたな! ヒトデナシ! ロクデナシ! チンボナシ! 今度やったら、本気で死んでやるからな!」

 死ねまい。それは、わかっている。死んだ振りを楽しむためには、その人間は絶対に、死ぬわけにいかないからである。

 この場面を見た人は言うかもしれない。
 相手は子供であり、もっとやさしく扱うべきだと。
 だが、永井家の家主ともあろう者が、悪童が首吊り遊びをおこなう度にいちいち動揺しているようではその職務に支障をきたす。
 このような真似をする者には、その見せかけの企てを阻止するのではなく、かえって目的を幇助するようにして対するのが最上の策なのである。

「やってみろ。今度こそ、本気で殺してやるからな」
「そんなことしたら、人殺しになっちゃうじゃないか」
 悪太郎は、法というものの正体を、どんな子供でも守ってもらえるお地蔵様のようなものだと取り違えているらしい。
「フフフフフ……人殺しにはならん」
 子供の目になるべくブキミに映るであろう笑みを浮かべてやる。
「おまえは俺を驚かそうと、自分の手で窓枠にロープを架け渡し、身支度を整えたうえ、ほれ、こんなヘタな字で遺書まで書き、ともかくも自殺の現場を偽装した。これで本当に死んでしまったとてすこしも不自然ではなく、だれもが、愚かな子供が首吊り遊びにしくじり破滅したと思うことだろう。日頃からおまえは、だれかれかまわず自殺の真似事を見せつける悪童として知られているからな。警察も俺の仕業と疑ったりなどはすまい。かくして完全犯罪が成立し、めでたしで終わるのだ」
 人騒がせな悪童に向かって、ザマ見ろといわんばかりに舌を出してみせた。
「大人を相手に、あんまりおまえらしいバカをやるんじゃないよ」
 くるりと背を向け、部屋を出ていこうとすると、相手は乞うように問うた。
「朝ご飯は? 朝ご飯は?」
「鼻がいいから、匂いでわかるだろう。カレーだ」
「ああっ、ぼくも食べるよーーっ!」
「下りてくるな。おまえはメシ抜きだ」


 さあ。今度は、便所の向かい側の部屋にいる下宿女の番だ。
 深く息を吸いこむと、気合いを込め、レット・バトラーさながら部屋のドアに向かって、足蹴りを食らわせたのである。



( 続く )






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