新宿駅構内の雑踏の中を蒼白な顔でよろよろと進みながら、春彦は忍耐がすでに限界に達したと感じていた。
うえ〜、グワイが悪い〜。
仲間との飲みくらべでしたたかに酔った彼だが、いよいよ差し迫った嘔吐の発作の前兆として口の中にこみあげる苦が酸っぱい液体を必死で呑み下すという防止策を繰り返しつつ、構内トイレまでの絶望的に長い道のりを、ぐらついた足取りで克服しなければならないわが身の先行きに思いをはせた。
しかしトイレまでたどり着いたとて、いまの時間帯、列に並んで長いこと待たされるのはあきらかだ。
吐いたら、逃げればいい。
唐突に、羞恥心を排除した解決策が脳裏に浮かんできた。
こんなに大勢の中だ、目立ちゃしない。吐いてすぐいなくなれば、だれのゲロだかわかるもんかよ。
よし……やってしまおう。
すぐに実行に移す。いや、結論はどうあれ、吐く以外に選択の余地がない身体的危急の瀬戸際だった。
だが。
集団の中で嘔吐した者がいると、介護すべき哀れな隣人というより、周囲に災いを撒き散らす悪意をもつ存在として、まず認知される。
つまり、みんな逃げる。
群衆の中、輪を描くようにできあがった空間の中央にひとり、まるで苦しみを誇示するような目立ちようで、胃の内容物をホームの舗装にぶちまける春彦だけが取り残された。
しかも。
そもそも、人前で嘔吐せねばならぬまでに追い詰められた者の体調は、そうした行為の直後における逃走を許しなどしない。
吐いてすぐ逃げる、という都合のいいわけにはいかないのだ。
彼は、意識を失うのをかろうじてこらえるようなザマをさらしながら、みずからによる失態の証拠の前にしゃがみ込まなければならなかった。
うえ〜、グワイが悪い〜。
そのとき。
群集とは逆に、彼のほうに駆け寄ってくる人影が目に入った。
あ、駅員がくる。助かった、介抱してもらえるぞ。
しかし。
駅員の男は、うずくまる春彦には目もくれず、ただその吐瀉物にのみオガクズのようなものをたっぷりかけるという取りあえずの護美的処理だけすると、そのまま行ってしまったのだ。
翌日。
おなじ時刻のおなじ場所。
春彦は雑踏の中を急ぎながら、自己が過失をしでかした現場が二十四時間後にどうなったか確かめずにはいられぬ自分を感じていた。
あのゲロ、もうないだろうな。
彼のゲロはなくなっていた……と思いきや。
グワッ!
ゲロだ。別のゲロがある。何者かがあらたに吐き捨てたのだ。
後ろの奴、押すな、こら。
ああ! 踏んでしまう。
春彦は足を取られ、だれか人の体内からぶちまけられて間もない、なま温かな汚物だまりの真上からビシャッ! と尻餅をついた。
その刹那、少し離れたホームの片隅で、浮浪者らしき男が胃をおさえながら身を休めているのが目に入る。
ぐわ〜〜っ!
これは自分の落ち度ではないのだ。
春彦は心置きなく、助けを求めるように悲鳴を上げたが、周囲の人々はそう取らなかった。
「見て、見て。昨日とおなじ人よ。また、吐いてる」
春彦の不幸は続くのだった。